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第二章 漱石の文明批判と未来予測 ブログトップ

1.警察官は人間失格である ―「警察」の比喩としての「探偵」 [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

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 漱石の敵を比喩的に表現すれば「犬党にして器械的+探偵主義」となる。では漱石は『吾輩は猫である』で何を批判したのだろうか。それは簡単に推理できる。漱石が『文芸の哲学的基礎』で、「警察官は人間失格である」と述べていることから、当時の警察以外に考えられない。
 漱石はいったい何を考えて、「警察官は人間失格である」と述べたのだろうか。だれもが、気になるところだ。一人ぐらい、「警察官は人間失格である」との漱石の言葉を手掛かりに論陣を張った研究者や文芸評論家がいてもよさそうなものだが、不思議なことに、これまでに「警察官は人間失格である」という漱石の言葉に注目する研究者や評論家は、一人もいなかったのである。きっと、漱石らしくない言葉と決めつけて、真に受けなかったのだろう。
 漱石の作品群を読んでみると漱石は講演ばかりでなく、多くの作品で「探偵」や「巡査」という言葉を使っており、警察を批判しているかのような個所が散見できる。あたかも『吾輩は猫である』や『文芸の哲学的基礎』へのリンクを張るかのようである。だが、まともな評論家や研究者の目には漱石特有の諧謔程度にしか見えなかったのだろう。
 気にとめる者がいても、「漱石の探偵嫌い」と呼び、漱石の母子相姦願望からくる原罪意識とか窃視恐怖に関連づけて漱石の心理を分析する程度であった。あたかも、国民作家漱石の優等生のイメージに合わないことは、諧謔や気の迷いとしか解釈しないのが、文学的解釈であるかのようである。だから、このまともな人たちが、諧謔や気の迷いとして深く知ろうとしなかった、いわば見落とした証拠が、大きなヒントになるのである。
 漱石が「警察官は人間失格である」と述べた問題の講演とは、一九〇七年(明治四十)四月に東京美術学校で行った東京美術学校文学会の開会式での講演のことである。一九〇六年(明治三十九)八月に『ホトトギス』での連載が終わり、ちょうど単行本の『吾輩は猫である』の第三巻(第八話 ― 第十一話)(一九〇七年五月)が出版される頃のことであった。漱石は、この講演の速記録をもとに『文芸の哲学的基礎』と題した論稿を『朝日新聞』に連載したのである。
 『文芸の哲学的基礎』は、『文学論』の補遺とか序文的論考などといわれることがあり、一般的には自然主義への批判と解釈されているようである。この『文芸の哲学的基礎』で、漱石は、文芸の大元となる理想を、美(『草枕』的には非人情)・真(知)・善(情)・荘厳(意)の四つに分類して、現代文学の悪い点を真(知)の偏重にあると指摘している。この真(知)の偏重の例として、漱石は「探偵」を示しているのである。
 漱石は「探偵」について、「探偵ができるのは人間の理想の四分の三が全く欠亡して、残る四分の一のもっとも低度なものがむやみに働くからであります。かかる人間は人間としては無論通用しない。人間でない器械としてなら、ある場合にあっては重宝でしょう。重宝だから、警視庁でもたくさん使って、月給を出して飼っておきます。しかし彼らの職業はもともと器械の代りをするのだから、本人共もそのつもりで、職業をしている内は人間の資格はないものと断念してやらなくては、普通の人間に対して不敬であります。」と述べている。
 今紹介した文章の前半の「探偵ができるのは―中略―かかる人間は人間としては無論通用しない。」というところをまとめると、「探偵ができる人間は、人間として通用しない」ということになる。そして、文章後半の「彼らの職業は―中略―普通の人間に対して不敬であります。」というところをまとめると、「彼ら」というのは「探偵」のことであるから、「探偵という職業をしている内は人間の資格はない」ということになる。
 あわせてみると、「探偵ができる人間は、人間として通用しない」「探偵という職業をしている内は人間の資格はない」ということになってしまう。「探偵ができる人間」というのは「探偵」で、「探偵という職業をしている」人間も「探偵」である。「人間として通用しない」とか「人間の資格はない」というのであるから「人間失格」という意味になる。つまり一言でいうと「探偵は人間失格である」ということなのだ。
 また漱石はモーパッサンを批判する際、「現代の文学者をもって探偵に比するのははなはだ失礼であります」といいながらも、「モーパッサンの例に至ってはほとんど探偵と同様に下品」で、「モーパッサン氏に一点の道義的同情があるならば」といって、「探偵」を例示してモーパッサンに「道義的同情」が完全に欠けていることを批判している。このことは、「探偵」に「道義的同情」が欠けているということをも示している。
 さらに漱石は、「探偵」について「重宝だから、警視庁でもたくさん使って、月給を出して飼っておきます。」と言っており、「探偵」が、警視庁が「月給を出して」たくさん雇っている人たちであるということがわかる。このことから考えると、漱石がいう「探偵」というのは、「警察官」ということになってしまうのである。つまり「探偵は人間失格である」というのは、「警察官は人間失格である」ということになるのだ。
 ただ、漱石は直接「警察官」とは言わず、「探偵」と呼んでいることから、「漱石は『警察官』ではなくて『探偵』のことを言っているんじゃないか」と反論することは可能である。だが、そうではない。漱石は、『草枕』(一九〇六年)で作中の人物に「『衛生じゃありません。探偵の方です』『探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの』」と語らせており、そこでも「探偵」=「警察」であることが類推できる。このような例は他の漱石の作品にもみられることから、漱石が「探偵」という語を「警察」(警察官・巡査・刑事含む)の比喩として使っていることは明らかである。そして、先に述べたように「探偵主義」が「国家主義」であるとすると、漱石がいう「国家主義」は「警察主義」と言い替えることができる。
 「警察官は人間失格である」という漱石の考えをふまえて『吾輩は猫である』を読み返せば、漱石が『吾輩は猫である』で当時の警察を批判していることが明らかになり、漱石の「探偵」批判は単なる「探偵」嫌いなのではなく、「警察主義」とも呼ぶべき「国家主義」に対する批判であることがわかるはずである。



2.漱石の暗い部分 ― 心理分析の前に [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

 『吾輩は猫である』の未来予測を解釈する際、「探偵」に関する記述を真面目なものととらえず、諧謔と解することが、漱石の未来予測を理解するうえで影を落としているように思われる。
 漱石の門弟のひとりの和辻哲郎が『夏目先生の追憶』(一九一七年)で漱石の諧謔について「諧謔は先生の感情表現の方法として欠くべからざるものであった。先生の諧謔には常に意味深いものが隠されている。」「もともと先生の気質には諧謔的な傾向が(江戸ッ児らしく)存在していたかもしれない。しかし先生は諧謔をもってすべてを片づけようとする人ではなかった。諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた。先生が単に好謔家として世間に通用しているのは、たまたま世間の不理解を現わすに過ぎないのである。」と述べている。
 和辻がいうように漱石の「諧謔には常に意味深いものが隠されている」のなら諧謔をただの冗談と決めつけてはいけない。和辻に「諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた」といわれると、なにか漱石の心に闇が潜んでいるようで心理分析したくなる気持ちもわからないではないが、それでは漱石が批判したものは永久に見えない。むしろ「諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた」は、和辻が漱石の諧謔は風刺(厭世文学)と解釈すべきだとヒントを与えてくれていると考えるべきだろう。
 また漱石が何と戦っていたか、つまり『吾輩は猫である』で何を風刺していたかを知ることなしに、『吾輩は猫である』前後の漱石の奇行の説明をしようとすれば、精神的に云々と言わざるを得なくなる。とくに注意しておかなければならないのは、たしかに漱石は胃弱だったようであるが、漱石の作品や手紙などを読むと、漱石が自ら誇張して神経衰弱と喧伝し、漱石自身が神経衰弱であるとの噂を流したふしがあるということである。漱石は鈴木三重吉宛の書簡で「現在状態が變化すれば此狂態もやめるかも知れぬ。」「氣違にも、君子にも、學者にも一日のうちに是より以上の變化もして見せる。」(明治三十九年十月二十六日鈴木三重吉宛書簡)などと述べており、「狂態」をやめようと思えばやめられたのである。
 漱石は、一九〇九年(明治四十二)の『それから』で「幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、夫から夫へと電話が掛つて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。」と、幸徳秋水を探偵する巡査がそれからそれへと報知して、幸徳秋水の先回りをする様子を描写している。このことは、警視庁に特別高等警察が設置される以前にも同様の仕事をしていた警察官がいたことを暗示している。一九一〇年(明治四十三)の幸徳秋水事件、いわゆる大逆事件を契機に翌一九一一年(明治四十四)に警視庁に特別高等警察が設けられたが、漱石はそれ以前に警察官による探偵(思想取締り)を描写しているのである。
 さらに漱石は一九〇九年(明治四十二)の『永日小品』(一月から 三月に『朝日新聞』に掲載)でも、警視庁機密費について「捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。」と記している。漱石は機密費が本来の目的以外で使用されていることを指摘しているのである。これは現在の用語でいえば「裏金」ということになり、個人的に着服していないとの前提で考えれば、予算化されていない経費にあてたということになる。先の幸徳秋水の探偵経費「月々百円」もそこから出ていたとの推理も可能だ。漱石の作品に出てくる探偵や巡査、警察に関する記述は、単なる諧謔ではなく、真面目な記述として読めば、痛烈な警察批判である。それは、帝国大学教員という官吏による公務員の不正の暴露とも解釈できる痛烈な警察批判だ。
 後述するように、現在でも日本では警察を批判することはタブーといわれている。このことをふまえて考えると、戦前の警察を批判するのは、まさに命がけである。警察を敵にまわすことの恐怖や孤独は一通りではないはずである。警察を批判したとなると、家族(子孫含む)に累が及びかねないと考えるのが正常な判断であろう。維新の志士ならば、家族に累が及ばないように妻子を里へ返すところだ。構成を重んじる作風の漱石が、私生活においても、家族に累が及ばないようにと、強度の神経衰弱と思わせるよう演出していたとしても、不思議ではない。
 警察を批判することの特殊性を評価することなしに、漱石の暗い部分といって、漱石の心理分析をすることにどのような意味があるのだろうか。
 探偵に関する記述を諧謔と決めつけて、詳しく調べようとしない評論家の態度は不自然である。探偵や警察に関する記述を諧謔と決めつけて、詳しく調べようとしない評論家の態度にこそ、暗い部分があるように思われる。けっきょく、評論家が指摘する漱石の暗い部分とは、無意識に警察をタブー視することが組み込まれた評論家自身の視覚(思考構造)の盲点に過ぎないのではないだろうか。
 なるほど『吾輩は猫である』の怪気炎は、思いつきで書いた文章にみえる。たしかに作中人物に語らせたエピソードにたまたま「探偵」が登場しているかのようである。だが、だからと言って、漱石の精神に原因を求めてしまうと、相良英明氏が『夏目漱石の探偵趣味』で指摘しているように、探偵について荒正人氏や吉田敦彦氏のように漱石の心理分析をしてしまうと、分析結果の原因が何であったかという問題に話しが進んで探偵に関する問題はそこで終わってしまうことになる。
 それでは構成を重んじると言われている漱石が精神的な原因で作品の肝心要の部分を思いつきで書いたということになってしまわないだろうか。
 和辻の「諧謔は先生の感情表現の方法として欠くべからざるものであった。先生の諧謔には常に意味深いものが隠されている」という言葉が事実なら諧謔にこそ、漱石文学の神髄があるはずである。そもそも漱石が思いつきで書いたと認めてしまえば、著名な評論家が認めている漱石が構成を重んじたということと、明らかに矛盾する。
 ショーペンハウアーが示した『ガリヴァー旅行記』読解の心得「物語の中の物質的なことがらをすべて精神的に解釈し直し」ではないが、漱石の残した物語(漱石に関する伝記的物語も含む)の中の諧謔的なことがらをすべて現実的に解釈し直して、漱石の作品を読む必要があるのではないだろうか。



3.怪気炎の正体 ― 読者のステレオタイプと作中人物が語る真理の不一致が生む笑い [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

 漱石は、『文学評論』で『ガリヴァー旅行記』を「比喩譚」と呼び、「スヰフトの筆は詩的な所がない。頓才もあり風刺的でもある。又非常な達筆である。」と批評している。漱石が『吾輩は猫である』を『ガリヴァー旅行記』を意識して書いたとすれば、『吾輩は猫である』は、『ガリヴァー旅行記』の「詩的な所がない」点を補った「比喩譚」で「頓才もあり」「風刺的でもある」作品ということになりそうである。
 漱石は「頓才」について、「頓才の知的要素過重の極に達する時は、或は謎となり、或は所謂Conundrumに近きものとなる。之と共に其文学的価値は著しく減退する」と述べている。「頓才」は知的要素が過重になると、読者に真意を理解してもらえないのである。
 また漱石は、諷喩について、「諷喩の興味は二様」「一は地の文自身が文学的で面白いこと、一は地の文の裏面に潜む本意と表面にあらはれた意味との間に竝行を見出だすことの面白味である。然るに後者だけの興味では一向吾人に満足を与へない。」「諷喩で無いものとして、単にそれだけを味はつて見ると、何らの感興も湧かない。ヒユーモアにもヰツトにもならない。全く不合理不自然な所作として眼に映ずる丈である。」「比喩的に述べたものだなと理解し得た時に、始めて多少の興味を感じ得るのである。これとても唯知的に其処へ到着するものであるからして、其の興味たるや僅に謎を旨く解いた時位の快楽しか無いのである。」などと説明している。
 さらに漱石は、スウィフトの『桶物語』を例に「宗教史上の知識無いと、この書の諷喩は殆ど無意味で、知的にも何を云つて居るのか殆ど解し難いものに成る。従つて之を翫賞し得る読者は、多くの人間の中で宗教史を知る者、若しくは之に興味を有する者と云ふ条件がついて来る。からして此書の訴ふる読者の範囲は自ら限られなければならぬ。」と、宗教を風刺した『桶物語』の諷喩を理解するには、宗教史の知識が必要であると述べている。
 諷喩は喩えられていることの知識がなければ理解できないのである。つまり、「諷喩」も「頓才」同様に知的要素過重なのである。ここで一つの推理がはたらく、漱石が「諷喩」や「頓才」に使う比喩的表現が知的要素過重になることで減退する文学的価値を怪気炎と見せることで補っているのではないか、と。
 では怪気炎がどのようなものかというと、漱石は『吾輩は猫である』で「真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」(第十一話)と述べている。これが怪気炎の正体である。つまり、普通人は「少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」のである。『吾輩は猫である』が子供から大人まで読んで楽しめる作品なのは、漱石がその効果を巧みに利用しているからではないだろうか。
 漱石が「英雄」と呼ぶショーペンハウアーによれば現実と概念の不一致に気付いた瞬間に笑いが生まれるという。このことは、単に現実を表現していても、読者が現実であると思っていることと、表現されている内容との間の不一致に気付いた瞬間に面白みが生じることを意味している。漱石はこのような効果を巧みに利用しているのではないだろうか。漱石自身も『文学評論』で「ヒユーモアを有してゐる人は人間として何処か常識を欠いてゐなければならない」と述べており、漱石は、諷喩として表現すれば面白みに欠ける話しを、読者のステレオタイプ(常識)と作品中の人物が語る真理(非常識)との不一致によって面白みが生まれるように仕組んでいると思われる。それが怪気炎の正体である。読者が怪気炎として読めば、真理が理解できなくても面白味が減退することはないのである。
 だが漱石が、謎やコナンドラムになるものを怪気炎としているとすれば、文芸愛好家である文芸評論家はともかくとして、研究者がこれらを怪気炎と捉えてしまっては、研究者の存在意義がなくなってしまうのではないだろうか。このコナンドラムは、われわれには推理の楽しみを与えてくれるが、評論家や研究者には避けて通りたい難問となるようである。評論家や研究者たちが、諷喩と気付かずに怪気炎と決めつけて笑うのは、己の推理力のなさを笑っているようなものである。まるで漱石が『吾輩は猫である』の風刺の核心を怪気炎としてしか読めない文学研究者、博士たちを嘲笑っているかのようである。
 じつは漱石は怪気炎の正体が警察の諷刺であると推理できるようにヒントを残してくれている。漱石は、鈴木三重吉宛の書簡で「書齋で一人で力味んで居るより大に大天下に屁の樣な氣燄をふき出す方が面白い。」(明治三十九年一月一日付鈴木三重吉宛書簡)と述べているのだ。「気炎」が「風刺」だとすれば、「屁の樣な氣燄」と言う言葉から、さらに「屁」が「風刺」のことだと推理できる。そして『草枕』で「『しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな』『屁くらいで、どうかされちゃたまりません』」と語られている「屁」も「風刺」と読むことができるのである。
 当時検閲があったことを考えると当然なのだが、漱石は『文学評論』で「警視庁では風俗取締の為に読む。是も検閲の為だから否でも応でも読む。」と述べている。このことはつまり、漱石が自身の作品を警察関係者が読むことを前提として創作していたことを示している。
 その事をふまえて「五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。」という『草枕』の文章は意味深である。さらに「屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦の方針」となると、漱石が以前から自身が警備対象者になっていたことを知りつつ、検閲担当者に警察を風刺した個所(屁)を勘定させていたと、だれもが推理したくなるのではないだろうか。
 また漱石は『吾輩は猫である』で猫に「理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択ぶのである。」(第四話)と語らせている。「権力の目を掠めて我理を貫く」ための表現には、屁のような風刺がもってこいなのである。
 一般人の読者が怪気炎や諧謔として読む個所も、少なくとも警察関係者には風刺として読めたはずである。『吾輩は猫である』は、警察の風刺になっているのである。
 さらに「首縊りの力学」が実在する論文(Samuel Haughtonの " On Hanging considered from a Mechanical and Physiological point of view ")をヒントにしていることから、『吾輩は猫である』の未来予測の個所にある探偵化論、自殺論、非婚論も実在の論文などにヒントを得ていると推理できる。そしてもし『吾輩は猫である』が警察を風刺しているのだとすれば、探偵化論、自殺論、非婚論は、警察に関連する論文などを基にしていなければ、風刺にならないのである。



4.漱石の文明批判と未来予測 ―「二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる」(探偵化論) [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

 『吾輩は猫である』は、漱石の探偵趣味が出た小説と言われることがある。『吾輩は猫である』には、探偵小説でもないのに「探偵」という語が二六個もある。ちなみに、「巡査」が二〇個、「刑事」が一七個、「警察」が一九個、「交番」が四個、「お巡りさん」が一個ある。他の漱石の作品にも「探偵」や「巡査」といった言葉が出てくるが、『我輩は猫である』は突出している。
 あれこれ難しい議論をして、漱石の近代文明批判(近代文明批評とも)について指摘する学者や評論家は多い。しかし漱石が、具体的に何がどうなることを批判したかについて、明言する者は少ない。だが漱石は、『吾輩は猫である』で近代化によって人間の性質が変化することを、極めて簡単な表現で明確に述べている。
 漱石は、『吾輩は猫である』で、「二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向がある」(第十一話)と、独仙君に語らせている。このことは、漱石が、「二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる」(探偵化論)と考えていたことにほかならない。一言でいえば、人間が探偵化するということである。
 つまり漱石は、近代化によって人間が探偵化して国民になり、国民みんなが探偵化することで数々の問題が生じると考えたのである。「国民皆兵」とか「国民皆保険」といった伝統的な言いまわしをすれば「国民皆探偵」ということになる。そして、漱石が「探偵」という語を「警察官」や「警察」の比喩として用いていることから「国民皆探偵」は「国民皆警察」ということになるはずである。
 この探偵化(探偵化論)の結果として、自殺論や非婚論などの未来予測が語られていると考えれば、何も難しい読み方をしなくてもスムーズに漱石の文明批判が理解でき、文明批判と未来予測との関係も容易にわかるはずである。漱石の人間の探偵化という文明批判は、後に示すように「国民皆警察」として成就することから、未来予測(未来予知に近い)ともいえるのである。つまり、『吾輩は猫である』は、探偵化論について書かれた物語なのである。『吾輩は猫である』の第一話から第十話までの各話には、一つ以上探偵化関連の風刺があり、それぞれが第十一話の探偵化論の説明になっている。漱石の近代批判、社会批判、人間批判などといわれていることも、探偵化(探偵化論)に起因すると考えれば容易に理解できるはずである。
 それでは、漱石がいう「探偵」とは、どのようなものなのだろうか。漱石が「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向がある」と書いていることから、『吾輩は猫である』で現代人の特徴として述べられていることが全て、「探偵」の特徴といってもよいだろう。
 漱石は、以下のように苦沙弥先生に探偵的な人間の特徴を語らせている。
 「自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、勢自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕まるか、見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛だ。馬鹿馬鹿しい」(第十一話) と。
 この苦沙弥先生の発言から抜き出すと、探偵的な人間というのは、「自覚心」が「鋭敏」で「寝てもおれ、覚めてもおれ」で、「どうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけ」、「二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ない」、そんな人間である。探偵的になると「人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり」になって、「悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう」ということである。
 さらに漱石は、当時の中学生を例にして次の世代の人間たちの様子を暗示している。
 「今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情ない事だ。」(第十話)と。
 この文章の中学生の特徴(中学生が模倣する「今の世の働きのあると云う人」の特徴)から類推すると、「探偵」の具体的な特徴は、①「嘘をついて人を釣る」、②「先へ廻って馬の眼玉を抜く」、③「虚勢を張って人をおどかす」、④「鎌をかけて人を陥れる」である。後に示すが、単なる特徴の羅列ではなく、その順序にも意味がある。
 漱石によれば、これらの特徴を持った探偵的人間世界の「愛の法則の第一条」は「自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし」(第七話)なのである。この「愛の法則の第一条」は「あらゆる真実の純粋な愛は同情なのであって、同情にあらざるいかなる愛も自己愛」(『意志と表象としての世界』)であるとのショーペンハウアーの指摘の後段と一致している。
 この『吾輩は猫である』の「探偵的傾向は全く個人の自覚心の強すぎるのが原因」であるということと、『文芸の哲学的基礎』の「人間の理想の四分の三が全く欠亡して、残る四分の一のもっとも低度なものがむやみに働く」という探偵の真(知)の偏重という特徴を合わせると、二十世紀の人間は、自覚心が強すぎることと真(知)の偏重によって道義的同情を欠いた人間になるといえる。
 このような道義的同情を欠いた探偵的人間がひしめき合う社会について思いを巡らせば、なにも漱石でなくても、自殺が増えるとか結婚が困難になるといったことは容易に予測できそうである。たしかに怪気炎を真面目に読むと面白みに欠けている。
 不思議なことに漱石のいう「自覚心」は、ショーペンハウアーが「意識のなかでももっとも高度に高められた意識、すなわち人間の意識において、認識、苦痛、歓喜などが最高の度合いにまで到達するのであるが、エゴイズムもまた人間の意識において同様に最高の度合いに到達するに違いないのであって、エゴイズムのひき起こす個体間の相互抗争もまた、人間の意識において凄惨きわまりないすがたで出現するに違いあるまい。」(『意志と表象としての世界』)と指摘する「人間の意識」に酷似しているのである。



5.近代人の類型化の一例としての「探偵」― シャーロック・シンドローム [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

 警察官を「探偵」と呼んで警察を批判したのはなにも漱石ばかりではない。中江兆民が『警世放言』(松村三松堂、一九〇二年)で「探偵の弊」や「探偵の濫用」と題して、当時の警察を批判している。先に述べたように、中江兆民は、ショーペンハウアーの『道徳の基礎について』の翻訳者である。このことはつまり、「探偵」をキーワードにたどっていっても、「ショーペンハウアー」に突き当たるということになる。
 「探偵の弊」で兆民は、ローマ帝国末期の「デラトール」を例示して、「デラトールは密告の事を職業として官より俸給を受け居ること故、時々密告の効を挙げざる時は職業を怠たる様の嫌疑を免れざるより、有る事無き事皆密告し、又深き仔細も無き一時の談話を盗聴して之れを告ぐる等種々の姦計が行はれて、其末や在上の人の目には、在野の者が皆陰謀家の様に思はれて、恰も神経病者が見る者聞く者皆讐敵の感を起すと一般なり、彼れ『デラトール』の喉舌は個より醜とす可きに論無きも、在上の人が之れを信じて無縄自縛の墓無き心地に陥いりたるは、実に笑止千万と謂ふべし、今日に在ては孰れの國にても、治安に必要なる丈けの探偵吏は個より之れを用ゆると雖ども、精選したる上にも精選するが故に彼の『デラトール』の弊は決して有ること無し、此れ正さに文明の効と申す可き歟」と、文脈からいって「探偵吏」が警察官のことを指すことは明らかだ。
 「探偵の濫用」では、フランスの第二帝政の探偵を例示して警察を批判している。「探偵を濫用せしが為に國人の風俗を傷負して、道徳的の水平線を著しく下らしめたることに至りては、史を読む者実に為めに寒心の惨を禁ずること能はず、且つ此の如き浅薄無行の探偵を使ふて、夫れにて、若干の効果が有ると自信せる官吏其人々の人物の程も思ひ遣られて可笑しきとや云はん、気の毒とや云はん」、「シテ見れば國財を糜し國俗を敗りて迄も、彼の三百探偵を無暗に繰出すことは余り感服せぬ事と云ふべし」、「政府と民間との直段の懸隔は正さに仏蘭西第二帝政の時の反対とも云ふべしされば在上の方が民間を恐ろるゝことは萬々無きこと故、國財を糜し國俗を敗りて彼の三百探偵を濫用することは萬々無かるべし」などと述べて「探偵の弊」と同様に皮肉っぽい批判をしている。当時、弁護士を罵るのに「三百代言」(穂積陳重「三百代言」『続法窓夜話』岩波書店、一九八〇年)といったそうであるから、兆民は「三百探偵」と言って探偵(警察官)を罵ったわけである。このように兆民も警察官を「探偵」と呼んで当時の警察を批判したのである。
 学問の世界では、直接警察を批判することも特別なことではない。ドイツの社会学者テンニエス(Ferdinand Tönnies, 1855―1936)は『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(一八八七年)で、世論は、ゲゼルシャフト(Gesellschaft:選択意志―後発的で合理的・打算的な意志―に基づく観念的・機械的な形成物[ゲゼルシャフトの概念]としての結合体。)の道徳を表現し、それによって国家の上に君臨することができる。世論は、すべての人に有益な行為をさせ、有害なことをさせないように、国家をせき立て国家の不可抗的な力を使用させようとする決定的な傾向をもっている。世論にとっては、刑法の拡張や警察力の拡大が、大衆の悪への傾向に対向するための正しい手段であるように思われるが、世論は、(上層階級のための)自由の要求から(下層階級に対する)専制の要求に移行しやすいと指摘している。またスペインの哲学者オルテガ(José Ortega y Gasset、1883 ― 1955)も『大衆の叛逆』(一九三〇年)で、「《秩序》を愛する人々が、秩序のためにつくられたこの《社会的秩序を守る権力》は、かれらの好むような秩序を維持することで、いつも満足するだろうと考えるのは、無邪気というものである。しまいには、警察力は、自分の押しつけようとする秩序、いうまでもなく自分の都合のいい秩序を自分で定義し、決定することになるのは避けられない。」と述べている。
 国民みんなが探偵化(警察化)するという漱石の考えもとくに突飛な考えではない。フランスの政治思想家トクヴィル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805―1859)が一八三一年ごろのアメリカの民主主義の姿を見て「事務官の習性と兵士の習性との間に、ある種の融合が生じる、と私は確信する。行政は何ほどか軍事的な精神を取り入れ、軍隊は行政の慣行を若干、取り入れる。その結果は、規則的、明確、精細、絶対的な支配であろう。国民は軍隊を象ったものになり、社会は兵営と考えられるであろう。」と述べており、トクヴィルがいう行政が軍事的な精神を取り入れ、軍隊が行政の慣行を取り入れて出来た行政と軍隊の融合物を警察と解釈すれば、「国民は軍隊を象ったものになり」との予測を「国民は警察を象ったものになり」と言い替えることができる。つまり、国民が皆警察化すると言えるのである。同様に「社会は兵営と考えられるであろう」という個所も「社会は警察と考えられるであろう」と言い替えできる。
 このように、漱石が「探偵」と呼んで警察を批判したことや国民みんなが探偵化(警察化)すると指摘したことは、なにも特別なことではないのである。
 だがここで、注意が必要である。漱石の「探偵」に関する発言に職業差別というラベルを張り付けてしまうと、漱石の文明批判が何かを見失ってしまうことになる。いうまでもないことだが、漱石が使う「探偵」という語は、現在の「探偵業者」や「探偵業務に従事する者」を指すのではない。また、漱石が「探偵」という語を使って批判した警察は、戦前の警察であり、形式的には現在の警察とは全く無関係である。
 もし、『吾輩は猫である』の文明批判の「探偵化」(探偵化論)についてまじめに議論するのなら、「探偵化」を「岡っ引き根性」や「税金泥棒」といった差別用語と同列に見てはならない。漱石の探偵批判(つまり警察批判)は、職業差別と見るより、近代人を類型化し、その批判を試みたと捉えるべきである。例えば、他人指向型・内部指向型とか、ピーターパンシンドロームや甘えの構造における「甘え」などの概念と同様に近代人の特徴の類型化を試みたと考えるべきである。
 「探偵」という語の使用が職業差別になるのなら、ピーターパンシンドロームにならって、ディテクティブ・シンドローム(Detective Syndrome)と呼べばよいだろう。ディテクティブ(探偵)でもまだ職業を示しているから差し支えがあるというのなら、探偵小説の主人公の名を借りてシャーロック・シンドローム(Sherlock Syndrome)とでも呼ぶことにしよう。
 本ブログでは、現在の職業を指すとの誤解を防ぐために、漱石がいう意味での「探偵化」、つまり自覚心が強すぎることと真(知)の偏重によって道義的同情を欠いた人間になることを、シャーロック・シンドロームと呼ぶことにする。



6.漱石の未来予測―自殺論・非婚論・「からかい殺す」世の中に [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

 漱石は、「冗談と云えば冗談だが、予言と云えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」(第十一話)と述べている。『吾輩は猫である』の未来予測を怪気炎や諧謔と呼ぶ人々へ注意を促しているかのようである。だが確かに極端な表現になっており、滑稽さを強調するだけの諧謔にしか聞こえない。
 漱石は、『吾輩は猫である』で以下のように、「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは智慧が足りないから自然のままに放擲しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新な名案を呈出するに違ない。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的な方法をもってこの世を去るに違ない」(第十一話)と、苦沙弥先生に未来は自殺が増加すると自殺論を語らせている。
 さらに漱石は、「そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる」「その時分になると落雲館の倫理の先生はこう云うね」(第十一話)と、「倫理」(公徳)から「自殺学」への移行を指摘し、以下のように続けている。「諸君公徳などと云う野蛮の遺風を墨守してはなりません。世界の青年として諸君が第一に注意すべき義務は自殺である。しかして己れの好むところはこれを人に施こして可なる訳だから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。ことに表の窮措大珍野苦沙弥氏のごときものは生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。もっとも昔と違って今日は開明の時節であるから槍、薙刀もしくは飛道具の類を用いるような卑怯な振舞をしてはなりません。ただあてこすりの高尚なる技術によって、からかい殺すのが本人のため功徳にもなり、また諸君の名誉にもなるのであります。」(第十一話)と、公徳から自殺の義務へ、自殺の義務から他殺へと進化し、他殺手段が「からかい殺す」という方法になるというのだ。つまり漱石は、未来の社会は人間を「からかい殺す」世の中になると予測しているのである。
 この「からかい」について漱石は、「世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうと云うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。但し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうと云う娯楽に耽るものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに暇なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には自己の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法である。」(第八話)と猫に語らせている。漱石がいう「からかい」とは「先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせる」かする「娯楽」で、現在のいじめより広い意味があり、「他者の不快を欲する悪意」を動機とした行為全般を意味しているといって良いだろう。漱石は、この「からかい」(「娯楽」)が他殺の方法となるというのである。つまり漱石は、現在の「いじめ」を含めて「からかい」と呼び、「からかい殺す」世の中になると未来予測していたのだ。
 さらに漱石は、非婚化(非婚論)について、「僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢を卜すると結婚が不可能の事になる。」「夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴を穿いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。」(第十一話)と、個性が強くなればなるほど夫婦同居が困難になると述べている。
 以上のように漱石は、自殺が増加する(自殺論)、「からかい殺す」世の中になる(「自殺学」)、非婚化する(非婚論)と未来を予測している。これらの予測は個人の自覚心が強すぎるために人間が探偵化する(道義的同情を欠いた人間になる)こと、つまり探偵化論によって導き出される帰結と考えれば細かい説明をしなくても、容易に理解できる。
 ただここで忘れてはならないのは、「探偵」と「警察」を結び付けて考えることなく、自殺が増加する、「からかい殺す」世の中になる、非婚化するといった程度の未来予測を書いたり、「太平の逸民」の人間模様を風刺したりする程度なら、「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神」で文学をやるという覚悟は必要ないということである。
 『吾輩は猫である』が、警察を風刺した作品だからこそ、「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神」で文学をやる必要が出てくるのである。そして『吾輩は猫である』が警察を風刺した作品であるのなら、探偵化論、自殺論、非婚論などの未来予測は、警察に関連する論稿を基にしていなければならない。



7.漱石の戦い方 ―「文明の革命」としての風刺による文学的な懲戒的効果と「トニック」 [第二章 漱石の文明批判と未来予測]

 漱石の敵は「犬党にして器械的+探偵主義」であると推理できたが、敵というからには、その敵を倒さなければどうにもならない。もし、漱石が敵を倒すつもりだったなら、敵を倒す手段を講じていたはずである。
 漱石は虚子宛の書簡で「僕は十年計画で敵を斃すつもりだったが近来是程短気なことはないと思つて百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。」と書いており、漱石が「敵を斃す」つもりであったことがわかる。では、漱石のいう「敵を斃す」とは、いったいどのようなことなのであろうか。
 そのヒントが『二百十日』(『中央公論』一九〇六年十月)にある。漱石は『二百十日』で作中人物に以下のように語らせている。「『うん。文明の革命さ』『文明の革命とは』『血を流さないのさ』『刀を使わなければ、何を使うのだい』 圭さんは、何にも云わずに、平手で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二返叩いた。『頭か』『うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ』」と。このことから推理すると、「敵を斃す」というのは、頭を使った戦いに勝つということだと考えられる。では、頭を使った戦いとはなんだろうか。
 漱石が志士スウィフトのように志士の如く戦うつもりであったなら、風刺を利用して「敵を斃す」はずである。
漱石は「厭世的な諷刺」について、『文学評論』で「読者が諷刺物から得る影響は―中略―未来に於て、読者がなるべく此被諷刺的地位を避けようとする傾向である。もし此被諷刺的地位に陥る危険を冒せば、個人として自己の人格を傷つけると云ふ不安の念を抱いて来る。」と述べ、さらにスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の小人国の大王を例示して、「大王は直ちに被諷刺的の地位に立つ訳になる。言葉を換へて云ふと、吾人は大王の様な真似をする気にならなくなる。これが文学的に懲戒的な所で、此懲戒の意味が普遍的になればなる程、又だれの上にも応用が出来れば出来る程諷刺は成功したものである。」と述べている。漱石によれば、読者には「被諷刺的地位を避けようとする傾向」があり、風刺には、被風刺者の「真似をする気にならなくなる」「文学的に懲戒的な所」があるというのである。つまり、風刺には被風刺者の真似(模倣)をしたくなくなるという文学的な懲戒的効果があるのである。漱石は、この風刺が持つ文学的な懲戒的効果をつかって「敵を斃す」つもりだったと思われる。
 さらに漱石は風刺を以下の三つに分類している。「第一は好意的の風刺である。風刺其ものは苛酷かも知れぬが、其目的は風刺を受ける当人をして悪を罷め善に移らせようとする好意から出るのである。」「第二は悪意的のもので、単に其人の感情を傷つけて、陰で舌を出して居ると云ふやうな皮肉な遣り方である。」「第三は善意でも悪意でも無い、唯風刺其ものが面白いから遣る。其結果に至つては同うでもよい。豪も問ふ所で無い。小児が犬を追ひ廻はして喜ぶ如く、風刺以外に何の目的も有して居らんのである。」と。
 漱石が風刺の文学的な懲戒的効果を利用して「敵を斃す」つもりであったなら、『吾輩は猫である』の風刺は、「第一の好意的の風刺」でなければならない。そして漱石が「風刺を受ける当人をして悪を罷め善に移らせようと」していたならば『吾輩は猫である』の風刺は、少なくとも被風刺者(犬党)が読めば、自分のことであると理解できるものであったはずである。
 ところで、漱石は敵を倒せたのだろうか。その答えは、否である。それは漱石が「僕は十年計画で敵を斃すつもりだったが―中略―百年計画にあらためました。」と述べていることから類推できる。つまり、当初十年で『吾輩は猫である』の風刺の文学的な懲戒的効果によって「悪を罷め善に移らせ」ようとの思惑がはずれたということである。さらに国民皆探偵という漱石の未来予測が、国民皆警察というかたちで的中したことからも、現時点では、風刺による文学的懲戒的効果は全くみられなかったといえる。
 だが、風刺による文学的懲戒的効果が見られないのは、被風刺者に『吾輩は猫である』の風刺の意図が伝わっても、ほかの人々に諧謔としか受け止められていないからだと考えられる。なぜなら、被風刺者が明確でなければ、被風刺者は嫌な思いをするだろうが、懲戒的な効果はあまり期待できない。ほかの人々が怪気炎や諧謔としか受け止めなければ、懲戒的効果の有無は被風刺者しか知ることができない。風刺が文学的な懲戒的効果を十分に発揮するためには、被風刺者が解明され、だれもが被風刺者を知ることが必要不可欠なのである。
 しかし漱石はこのことを折り込み済みで、「十年計画で敵を斃すつもりだったが」「百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。」と述べたと思われる。つまり、漱石は『吾輩は猫である』の風刺を、被風刺者だけに風刺とわかる段階と、ほかの人々にも風刺とわかる段階との時間のずれを想定して書いたのである。前者は即効的で、後者は社会情勢によって変動するものとなっていると思われる。漱石は、後世の「維新の志士の如き烈しい精神」を持った評論家や研究者に思いを託したといってもよいだろう。
 漱石は、風刺による文学的な懲戒的効果に加えて、国民皆探偵化(国民皆警察化)に対する「トニック」(栄養剤)を示している。
 漱石は『断片』で「天下に何が薬になると云ふて己を忘るるより鷹揚なる事なし無我の境より歓喜なし。カノ芸術の作品の尚きは一瞬の間なりとも恍惚として己れを遺失して、自他の区別を忘れしむるが故なり。是トニックなり。此トニックなくして二十世紀に存在せんとすれば人は必ず探偵的となり泥棒的となる。恐るべし。」と述べており、芸術を探偵化に対する「トニック」と考えていたことがうかがえる。さらに『吾輩は猫である』で漱石は、「私の考では世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。」(第十一話)と、「愛と美」が「同情を洗練する」と書いている。
 漱石は、芸術という「トニック」によって道義的同情を洗練させ、探偵化を緩和しようと考えていたのである。それは『草枕』の最後の部分の美と憐れの重なる瞬間にも見え隠れしている。
 以上のように、漱石は短期的には、被風刺者だけが風刺を理解する段階の風刺による文学的な懲戒的効果によって、長期的には、被風刺者が解明され誰もが風刺を理解できる段階の風刺による文学的な懲戒的効果と「トニック」(芸術)によって、「敵を斃す」つもりだったのである。これが、漱石がいう「文明の革命」である。先に述べた「真似」を後に示す「模倣」と解釈すれば、漱石が「模傚中心」を被風刺者とすることで国民皆探偵化(国民皆警察化)を阻止しようとしていたことが理解できるはずである。漱石にとって、探偵化(警察化)の呪縛から日本国民を解放することが、「文明の革命」なのである。
 詳述しないが、『鶉籠』(明治四十年)に収められた三つの物語には、探偵化との対決方法が例示されている。『坊っちゃん』では探偵的人間と探偵的に戦う例(ヤマアラシのジレンマを思わせる)を示し、『草枕』では探偵化のトニックを描き、『二百十日』では頭を使った戦いとしての風刺を暗示している。
 また漱石は、『こゝろ』で「もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。」と、「探偵」という語の代わりに「研究」という語を使って探偵化について言及し、『こゝろ』で探偵化していない人間関係を描こうとしたことを示唆している。



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