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第四章 『猫』にある松井茂の陰 ブログトップ

1.偶然の一致 ― 漱石の作品にある松井茂の陰 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は『吾輩は猫である』で「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな」(第十一話)と書いている。
 『草枕』でも「足がとまれば、厭になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。」と書いている。漱石は何の根拠もなく警察を非難したのだろうか。
 じつは松井茂が、警視庁四谷署長時代を回想して以下のように書いている。「多年刑事巡査として最も経験あり且つ東京市内でも名の売れた者に角村巳之吉と云ふがあつた。当時我が四谷署管内に賭博常習者にチビトク、ヒゲトラなどと称する者共は皆角村の乾兒であつた。又其頃東京の警察署には諜者といふ者があり、刑事巡査の手先となつて働くを常とした。而して一度刑事巡査が其の職を退く時には、平素之を親分として尊敬し来れる諜者や博徒等の類は手拭を配る等其の間に弊害も少なくなかつたものである。」(『松井茂自傳』)と。つまり、現実に警視庁の刑事が賭博常習者を子分にしていたのである。「諜者や博徒等の類」の中にスリや泥棒がいたとしても、なんの不思議もないだろう。
 この事実を松井茂自身や親友中村是公などから漱石が聞いていたと推理すれば、『吾輩は猫である』の「探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族」とか『草枕』の「掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。」という個所は事実を基にした風刺ということができる。
 ほかにも漱石の作品には松井茂を暗示しているかのような個所がいくつかある。『文鳥』には「顔を洗いながら裏庭を見ると、昨日植木屋の声のしたあたりに、小さい公札が、蒼い木賊の一株と並んで立っている。高さは木賊よりもずっと低い。庭下駄を穿いて、日影の霜を踏み砕いて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子の手蹟である。」と、文鳥の墓表に「この土手登るべからず」と書いてあったとある。
 「公札の表には、この土手登るべからずとあった」という個所が、松井茂の講演に出てくる語に類似している。松井茂は一九〇二年(明治三十五)の日本弘道会四谷支部会での講演「公徳と警察」で、「生徒は歩行中堤防に上るべからず」という表札に言及している。『文鳥』という作品自体を松井茂が関与した動物虐待防止会の風刺、「公札の表には、この土手登るべからずとあった。」という個所は松井茂が関与した公徳教育(広義の警察教育)の風刺と読めるのである。
 『野分』にも松井茂を想起させる以下のようなエピソードがある。「中国辺の田舎である。ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利かして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻わしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸るからである。」と、中国地方の中学校で英語教師の白井道也が追い出されるエピソードがある。
 『松井茂自傳』によると、松井茂は広島中学校時代に英語教師の排斥運動をしている。松井茂は、一八八一年(明治十四)頃の広島中学校を回想して「其の頃の事であつたが英語教師大山某氏排斥運動の火の手が校内にあがり、余も之に参加し一時は大変な騒ぎであつたが、田原教諭(後の早大教授)の戒めに従ひ漸く事なきを得た。」「当時の広島中学校は英語に重きを置き、古田、俵の諸生は其の方で頭角を現はして居つた。又ストライキの的となつた大山教頭は亜米利加帰りのチャキチャキで、日本の事情に通ぜぬところから、ああした騒ぎを起したものであらう。之に反し日本外史を講じた山内先生は慷慨家で、大いに生徒の気風を刷新したものであつた。」と、広島中学校での英語教師排斥運動について書いているのである。
 『私の個人主義』にも松井茂を想起させる個所がある。『私の個人主義』には「日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。火事の起らない先に火事装束をつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈け歩くのと一般であります。」とある。松井茂が国民に警察思想と消防思想を普及しようとしていたことを知る者には、風刺に聞こえるのである。
 以上、思いつくままにいくつか例示してみたが、漱石の作品を詳細に検証すれば、さらに多くの一致が見られそうである。じつは『吾輩は猫である』に出てくるいくつかのエピソードが、松井茂の関与した政策などと一致しているのである。それは偶然の一致と考えるにしては少々多すぎるのだ。



2.「公徳」― 穂積陳重の「公徳教育に就て」、松井茂の「広義の警察教育」 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は『吾輩は猫である』で「『……で公徳と云うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西でも独逸でも英吉利でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、我が日本に在っては、未だこの点において外国と拮抗する事が出来んのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大なる誤りで、昔人も夫子の道一以て之を貫く、忠恕のみ矣と云われた事がある。この恕と申すのが取りも直さず公徳の出所である。私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選でも高声に吟じたら気分が晴々してよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう云う時はいつでも控えるのである。こう云う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。……』」(第八話)と書いている。漱石によれば公徳は「恕」つまり「おもいやり」がその源泉なのである。
 この文章の出だしの部分が、松井茂の恩師穂積陳重の講演内容と似ている。穂積は、一九〇〇年(明治三十三)「公徳教育に就て」と題した講演で「欧米の市街では、馬車も多く通行人も多いが、下等な者でも、別に制せられなくても、交通上の規律は守る。一度警察規則で極れば、車でも、人でも、皆互に右に除けるとか何とかするから、どんな雑沓した處でも、突當ることなど滅多にない。」と「下等な者」を引き合いに出して、公徳を説明している。また穂積は「公徳に於ては、我邦は甚だ長じて居らないという結論を致しまして、この短所を補ふことは、教育の外に頼るべき道がない」と述べ、「武家時代には武士道と云ふ公徳上の教えがあったが、憲法時代にも亦之に代るべき公徳教育が必要であることは勿論のことである。」と、新たな公徳教育の必要性を訴えた。
 この公徳教育は、後に穂積自身が「公徳教育に関する事について聊か卑見を述べましたが、其事柄について、其後大に社会の注意を惹起し」(「経済教育と教育経済」『日本之小学教師』明治三十八年一月)と述べており、一九〇〇年(明治三十三)の穂積の講演「公徳教育に就て」が、公徳教育の契機となったと思われる。
 穂積と申し合わせたかのように一九〇〇年(明治三十三)頃から松井茂も、貧民研究会(「庚子会」)や警察協会(一九〇〇年設立。穂積陳重、穂積八束等を名誉会員とし、内務大臣西郷従道を総裁、警視総監大浦兼武を会長、警保局長安楽兼道を委員長、内務書記官有松英義・警視松井茂を幹事、全国警察官を会員とする団体)の設立に携わったり、動物虐待防止を奨励したりするなど、公徳教育に取り組み始めている。一九〇〇年前後に社会教化事業が盛んになるが、この年は干支でいえば庚子(かのえね・こうし)にあたる。つまり「猫」の敵、「鼠」なのである。
 社会教化事業に力を入れていた松井茂は、公徳教育を「広義の警察教育」とも呼び、一九〇二年(明治三十五)から一九〇三年(明治三十六)にかけて、「公徳と警察」「警察と公徳との関係に就て」「警察と教育との関係」などの公徳教育に関する講演を行っている。後に、広義の警察教育は「社会教化」と呼ばれ、狭義の警察教育は「警察教養」と呼ばれるようになるが、現在これらの語(「教化」や「教養」)は、朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国で「労働教養」「教化所」「労働教養施設」などという語に使われていることで有名である。
 「公徳と警察」(明治三十五)では「公徳と云ふものは個人の行為又は不行為が公衆に便益を与へるものである」と公徳を定義し、「警察と公徳との関係に就て」(明治三十六)では「公徳の養成は主として慣習の力であろうと思ひます、此慣習と申すものは良慣習も、悪慣習もございます、其処で此慣習を作り出すのは何か活動力がなければならぬ、此に於て善良なる慣習に属する公徳を作り出すにも其活動力とも称すべき中心力と云ふ者があらうと思ひます」と、善良な慣習つまり公徳を作り出すことを唱えた。そして、「公徳の慣習を養成する上に於て大に与りて力ある者は第一には階級の何れにある者たるを問はず苟くも勢力ある者、第二には教育家、第三には新聞紙、第四には公共団体、第五には社会倶楽部等の団体、第六には警察官以上六種の者にして公徳の率先者と為るときは偉大の効力があることと存じます」と、公徳の養成方法も示した。
 このように公徳教育という社会教化事業に熱心に取り組んでいた松井茂だが、意外なことに、大学時代は公徳をわきまえない、ちょっと迷惑な学生だったようである。松井茂は大学時代を振り返って「余は大学寄宿舎に於ては入口辺の部屋に居つたが、盛んに藤田東湖の『天地正大気』の長句を吟じたものであつたが、―中略―さて自分の室には壁間に東湖の掛物を掲げて東湖先生に親炙すると共に、一面盛んに山陽の名詩(衣は骭に至りとか、鞭声粛々とか)を怒鳴つて剣舞をやつたもので、遂に余等の室は『鹿鳴館』と綽名されたのである。其の意蓋し鹿鳴館は外交舞台に於て舞踏を演じた所謂文化的産物であるが、余等のはむしろ蛮勇的鹿鳴館であつた。」と回想している。松井茂は周囲の迷惑も考えず大学寄宿舎で大きな声で歌っていたのである。
 以上のように「公徳」は、松井茂の恩師穂積陳重が提唱し、松井茂自身も公徳教育という社会教化事業を熱心に行ったのであった。このことをふまえて冒頭の『吾輩は猫である』の引用個所を読めば、前半が、「恕と申すのが取りも直さず公徳の出所である」と、「恕」つまり「おもいやり」が公徳の源泉であるという公徳教育の説明、後半が公徳教育を熱心に行った松井茂の学生時代の公徳(漱石のいう「恕」)の欠けた生活ぶりを暗示しており、引用した文章が公徳教育と松井茂との風刺になっていることがわかる。公徳の源泉は「仁」でも「仁恕」でもよさそうなものであるが諷刺と見れば「忠恕」とした方が効果的である。
 後に明らかになるが、松井茂が展開した公徳教育(広義の警察教育)から国民皆警察に至る社会教化事業は「忠」を源泉としており、漱石がいう公徳の源泉となる「恕」(道義的同情)が欠けているのである。漱石は、そのことを批判したものと思われる。



3.「公徳」の形成例 ― 松井茂による左側通行の習慣の形成 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は『吾輩は猫である』では言及していないが、『文芸の哲学的基礎』で左側通行について以下のように書いている。
 「世の中は広いものです、広い世の中に一本の木綿糸をわたして、傍目も触らず、その上を御叮嚀にあるいて、そうして、これが世界だと心得るのはすでに気の毒な話であります。ただ気の毒なだけなら本人さえ我慢すればそれですみますが、こう一本調子に行かれては、大にはたのものが迷惑するような訳になります。往来をあるくのでも分ります。いくら巡査が左へ左へと、月給を時間割にしたほどな声を出して、制しても、東西南北へ行く人をことごとく一直線に、同方向に、同速力に向ける事はできません。広い世界を、広い世界に住む人間が、随意の歩調で、勝手な方角へあるいているとすれば、御互に行き合うとき、突き当りそうなときは、格別の理由のない限り、両方で路を譲り合わねばならない。四種の理想は皆同等の権利を有して人生をあるいている。あるくのは御随意だが、権利が同等であるときまったなら、衝突しそうな場合には御互に示談をして、好い加減に折り合をつけなければならない訳です。この折り合をつけるためには、自分が一人合点で、自分一人の路をあるいていてはできない。つまり向うから来る人、横から来る人も、それぞれ相当の用事もあり、理由もあるんだと認めるだけに、世間が広くなければなりません。」と。
 第二次世界大戦後右側通行になったためピンとこないかもしれないが、戦前は左側通行だったのである。漱石は「いくら巡査が左へ左へと、月給を時間割にしたほどな声を出して、制しても、東西南北へ行く人をことごとく一直線に、同方向に、同速力に向ける事はできません。」「こう一本調子に行かれては、大にはたのものが迷惑する」「向うから来る人、横から来る人も、それぞれ相当の用事もあり、理由もあるんだと認めるだけに、世間が広くなければなりません。」と述べて、左側通行を批判しているのだ。
 この歩行者の左側通行という習慣の形成の発案者が松井茂なのである。松井茂が一九〇六年に著した『警察の本領』(博文館)によると、徳育とは「教育の力を以て公私の徳性を涵養する」ことであり、公徳とは「個人の行為又は不行為が公衆に便益を与へるもの」で「互に思ひ遣り」「公衆が相互間に於て謙譲すること」である。この公徳に最も関係のあるものに「交通上の公徳」があり、「左側通行」は、「一つの公徳問題として一種の社会教育に関係する性質のもの」なのである。そして、「公徳と云ふものは、警察に最も関係のあるもの」で、「公徳と警察とは実に密接の関係がある」という。
 松井茂が左側通行に思い至ったのは、「我が警察界の恩人 法学博士穂積陳重先生」(『警察協会雑誌』第三〇九号、一九二六年)によると、一九〇〇年(明治三十三)、穂積陳重の主宰する大学出身者の法令研究会(「法理研究会」)において、「時々日本人も何れかの一方を歩むことが交通整理上必要でないか」との説を耳にしたからであった。そこでさっそく、当時警視庁第二部長であった松井茂は、警視総監と内務大臣に相談し、警視総監の告諭の形式で左側通行の徹底を図り、「左側を歩くと云ふ習慣をつくる」ことにしたのである。
 松井茂によると、「警視総監は左側通行の告諭を発せらるゝに当り、巡査を殊に緒処に立たしめて良習慣を養成する為に力を用ひたのである。―中略― 又巡査派出所には振仮名にて公衆に向いて、左側通行の旨を掲示して出来る丈の方法を講し」た。また、左側通行の強制によって、民衆と警察官との衝突が懸念されたことから、大浦兼武の発案で、通行人が仮に右側を歩いていても、警察官は無言で手で左側を指し、「左、々」と指示するのみにし、万一その指示に従わない場合は、「無言の儘眼つきを以て之に警告を与えるに留むべしとの訓示」がだされた。これが功を奏した結果、左側通行が全国に普及徹底することになり、内務省が「道路取締令」を出し、全国的に左側通行の制度を規定した(『松井茂自傳』)という。
 このように警察官の眼差し(監視)によって、「左側を歩くと云ふ習慣」(公徳)がつくられたのである。「無言の儘眼つきを以て之に警告を与える」ことは、大浦兼武の発案とされているが、これは、タルドの「感化力のある眼のうごきを身に感じたり、逆に他人に投げかけたりしていると、ついには、他人の眼を意識するだけで、あるいは遠くにいる人びとの注視の的になっていると考えるだけで、影響をうけるようになる」(ガブリエル・タルド『世論と群衆』稲葉三千男訳、未来社、一九六四年)。という理論と一致している。
 以上のような左側通行の習慣の形成は、松井茂を象徴する政策であることから、漱石が講演で語った「いくら巡査が左へ左へと、月給を時間割にしたほどな声を出して、制しても、東西南北へ行く人をことごとく一直線に、同方向に、同速力に向ける事はできません。」という言葉は、松井茂の政策の批判ということになるのである。



4.動物虐待防止と猫 ― 松井茂と動物虐待防止会 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 『吾輩は猫である』は猫の視線から語られた物語である。そしてこの物語は書生が猫を遺棄する場面から始まる。また、「書生というのは時々我々を捕えて煮て食う」とか、車屋の黒が魚屋に天秤棒をくらう話とか、猫が人間に虐待される描写が多々ある。さらに筋向の白君には、「我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬ」などと語らせている。『吾輩は猫である』は動物虐待防止を風刺しているといえそうである。じつは、この動物虐待防止は公徳教育(広義の警察教育)と関係があり、松井茂が特に力を入れた社会教化事業であった。
 漱石は、一九〇五年(明治三十八)十一月頃から一九〇六年(明治三十九)夏頃までの「断片」に「犬がいたづらをして仕方がありません。そうして皮膚病に罹つて―仕方がないから病院へやりました。御金が入るから二週間許りで退院させました。然し病気は中々癒らない。抛つて置くと段々蔓延すると云ふので困りました。仕舞に医者に手紙をやつて薬盛つて殺してくれと云ひましたら。医者が私は是でも動物虐待廃止会員であつて苟しくも生きて居る犬を薬で殺す抔といふ残酷な事は出来ないと云ひます。夫で仕方がないから又病院に入れました。さうしたら医者があんまりいい犬でもないから入院料をまけて上げますと云ひました」「地方の医学雑誌抔には随分なのがありますよ。ペスト予防法抔とあるからどんな事がかいてあるかと思つて見るとペストの予防法としては第一に猫を飼ふがいいとある。雄猫なら睾丸をぬけと書いてある。」と、『吾輩は猫である』で動物虐待防止会を風刺するために集めたネタらしきものがある。実際には使われなかったようで『吾輩は猫である』には「断片」のような話は出てこない。
 『吾輩は猫である』には、「考げえるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲けていやがる癖に、碌なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」(第一話)、「まだ面白い事があるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒をもって天下の公民を撲殺してあるく。……」(第十一話)とある。前者はペスト予防のために交番で鼠を買い取っていたこと、後者は狂犬病がはやったときに警察官が犬を撲殺していたことの風刺となっている。漱石は、みごとに動物虐待防止に警察をからめて風刺しているのだ。
 『吾輩は猫である』の連載が始まる三年前に動物虐待防止会ができている。一九〇二年(明治三十五)五月、山縣悌三郎、広井辰太郎、本田増次郎、井上哲次郎ほか70余名の発起で設立され、同年六月十五日、神田一ツ橋学士会事務所において、動物虐待防止会発起人会が開かれている。この動物虐待防止会に松井茂が関係しているのだ。
 松井茂は一九〇一年(明治三十四)万国消防博覧会へ派遣され、同年(明治三十四)五月四日から翌一九〇二年(明治三十五)四月八日までの約一年間欧米の警察消防を視察し、その間に動物愛護の状況をも視察した。同年(明治三十五)に著した「公徳と警察」で松井茂は、「近来は動物虐待防止会と云ふものも出来ましたが欧洲と日本とは雲泥の差がある」と指摘し、「伯林の動物保護協会では皇太后陛下が總裁の任に當られて居りましたが、御崩御の後今日では皇后陛下を戴く樣に嘆願する事にしたいものであると会の者共は云ふて居りました」とベルリン滞在時の逸話を紹介している。
 この松井茂の動物虐待防止会に対する考えは、一九〇四年(明治三十七)の動物虐待防止会機関誌『あはれみ』でも、「警視庁松井警視が、『我が国の動物虐待防止会が将来伯林の如く発達せんことを望むと同時に、警察官庁に於ても此点に意を用い、両々相俟つて我国今日の時代相応なる設備を設けらるゝ日の速に到達せんこと希望に堪えざる所なり』と云はれたは誠に尤もな事である」と、紹介されている。
 また「公徳と警察」で、日本の現状について松井茂は、「此頃東京に於ては大分此事に就ては注意する樣になりました、今年の五月十日から七月十日までの間に警察に於て干渉した統計は牛馬車と荷車とを合せて説諭したる數は七千七百九十八件処罰せられた者が二百五人である」と警察統計を示し、「此等の處置に就ては諸君中には異樣の感覺を抱かる丶人があるかも知らぬ何となれば女工の年齡制限小兒藝遊者の取締等の先決問題があるからである、乍併兎に角善事は早く行ふに限るから私は兩手を擧て此動物虐待防止会の益丶盛んになることを希望する」と、動物虐待防止会を奨励すべきであると主張している。
 また松井茂は、一九〇三年(明治三十六)に著した「警察と教育との関係」で、「社会の進歩と共に人類の衛生を重んずるに至るべきことは自明の理で御座いまして今日に至りては剰へ獣類の虐待防止の問題さへ生ずるに至りました、動物虐待の防止は主として風俗警察上に至大の関係を有して居ります」と、動物虐待が警察上の問題、つまり公徳の問題であると位置づけた。そして、「一面に於ては、人類其者の虐待防止の注意すべきことは是又国家の緊急問題でありまして職工保護の如き、人力車夫の雇人の如き悉く大に注意すべき点で御座います、彼の一時世上の注意を惹起せる娼妓の自由廃業といふやうなものも、人権の発達に伴ふて漸次発生し来つた所のものでありまして、やはり人類の虐待を防ぐといふ結果に外ならぬ」と社会問題に類する「人類其者の虐待防止」、つまり人間の虐待についても警察上の問題、つまり公徳の問題であるとしている。
 一九〇七年(明治四十)に著した『警察叢譚』では、「動物保護に関して参考に供すべき原著は、ブレデンチエル氏の『動物倫理』、ヒツベル氏の『刑上法に於る動物の虐待』ランゲ氏の『動物保護会の運動及独逸刑法第三百六十条第十三号に就て』ウエツツリヒ氏の『動物の権利』である。又之に関する雑誌は、独逸国では十種以上に及んでいる」と、ドイツでの動物虐待防止に関する著書・雑誌を紹介している。さらに、漱石の没後の一九二一年(大正十)に著した「社会と警察」では、「警察と密接の関係の深い社会問題は動物虐待防止である。」と警察を社会問題と直接結びつける問題として動物虐待防止を位置づけた。
 このように動物虐待防止会は公徳(広義の警察教育)と関係があり、動物虐待防止は松井茂が特に力を入れた社会教化事業なのである。松井茂を象徴する政策と言ってもよいだろう。動物虐待と「人類其者の虐待防止」とを絡めて公徳教育(広義の警察教育)と考える松井茂が「巡査が犬殺しのような棍棒をもって天下の公民を撲殺してあるく。」という言葉を聞いたら、どの様に感じるだろうか。『吾輩は猫である』に登場する「動物虐待」に関連する描写は、松井茂の社会教化事業の批判になっているのである。
 また『吾輩は猫である』には、朗読会の「賛助会員名簿」に署名捺印する以下のような場面がある。「『これへどうか御署名の上|御捺印を願いたいので』と帳面を主人の膝の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく勢揃をしている。『はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか』と牡蠣先生は掛念の体に見える。『義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表し被下ればそれで結構です』『そんなら這入ります』と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないと云う事が分っておれば謀叛の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。加之こう知名の学者が名前を列ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。『ちょっと失敬』と主人は書斎へ印をとりに這入る。」(第二話)と。
 『吾輩は猫である』を社会教化事業の風刺として読むと、この朗読会の「賛助会員名簿」に署名捺印する描写が、動物虐待防止会などの公徳教育(広義の警察教育)関連の会の入会風景を風刺しているように見えてくるから不思議である。



5.「警察の逆上」と「人類其者の虐待」― 松井茂の危機「日比谷焼打事件」 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は、『吾輩は猫である』(第八話)で一九〇五年(明治三十八)九月五日の日比谷焼打事件について書いている。日比谷焼打事件というのは、警察が日露講和条約反対運動の国民大会を禁止し、開催予定地の日比谷公園を封鎖したため、大会参加者と警官隊が衝突。これを発端に警察官を標的とした警察施設焼討ちが始まって騒擾となり、警察官がこれに抜剣し応戦、市民に死傷者が多数出たという大事件である。
漱石は、『吾輩は猫である』で日比谷焼打事件について以下のように書いている。
 「事件は大概逆上から出る者だ。逆上とは読んで字のごとく逆かさに上るのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる扁鵲も異議を唱うる者は一人もない。ただどこへ逆かさに上るかが問題である。また何が逆かさに上るかが議論のあるところである。古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四種の液が循環しておったそうだ。―中略― 現今に至っては血液だけが昔のように循環していると云う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんと極まっている。性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合である。だによって、この五升五合が逆かさに上ると、上ったところだけは熾んに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上と云う者である。でこの逆上を癒やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へ降さなくてはならん。」(第八話)と。
 漱石は「警察の逆上」という表現で、交番勤務の警察官が警察署に参集し、部隊行動したことを批判しているのである。そして、「逆上を癒やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん」という表現で、警察官の部隊行動をやめさせ、交番勤務の警察官は交番へ戻し、通常勤務体制に戻るべきと指摘しているのだ。現在でいえば、交番勤務の警察官を機動隊編成し、警備活動を実施したことを批判するに等しい。
 漱石が「ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなった」と書いているが、巡査召集の責任者が、警視庁第一部長であった松井茂なのである。『松井茂自傳』の松井茂先生自伝刊行会委員によると「各署からの応援警察官二百五十名が麹町署に、同じく二百五十名が本庁(内五十名は三井倶楽部)に召集され、又浅草、本所、水上、新宿品川、千住、板橋等の各署長も本庁に召集されて、先生の指揮下に入ることになつた。」という。
 また松井茂は、「内務大臣官邸に於ても抜剣を命じたり、或は同官邸内の火災の時に屋上に怪しき者あるを認めたので、暴徒として之を斬るべき旨を命令した」と、巡査に抜刀命令や斬り捨て命令を出している。仕方のないことだったのかもしれないが、皮肉なことに「動物虐待防止」と「人類其者の虐待防止」とを絡めて公徳教育(広義の警察教育)を実施していた松井茂が、「人類其者の虐待」をしたことになる。
 事件の翌日(九月六日)、警備責任者であった松井茂は、「『此の事件に就いては余は苟くも第一部長の職に在る以上、責任上進退を決する堅き決意を持つて居る』旨」を安立綱之警視総監に伝え、安立警視総監は自身の進退伺とともに松井茂の辞表も内務大臣に提出した。このとき安立警視総監の辞職は認められたが、松井茂は内務次官の山縣伊三郎に慰留され辞表は却下されている。
 松井茂は当時逓信大臣であった大浦兼武(以前警視総監を務めその際松井茂の上司であった)に説得され、日比谷焼打事件後の対応を行った。松井茂は当時を回想して「孤軍奮闘難局に当り、世評が柵の問題に及べば警察権の当然の措置なりと答へ、警察官が多数の者を虐待したと云へば之に対し、極力不法行為者は十二分に之を取調べて公にすべしと各警察署長に命ずる等、其の他東京府会に臨んでは人権蹂躙問題に接したり、或は東京弁護士会が警視庁廃止を絶叫したりする等、当時の実情は想像以上のものがあつた」と述べている。松井茂にとって「日比谷の騒擾事件は実に一生中忘るべからざる大事件」であったのである。
 さらに漱石は、松井茂の危機の際に松井茂を激励した逓信大臣大浦兼武に対して、文句を言っている。明治三十八年十一月十日の野間真綱宛書簡で手紙の配達遅延に以下のような不服を述べているのだ。「あの手紙は三日の消印あるにも関せず七日に到着馬鹿〔々々〕しいぢやげーせんか。附箋も説明も何もありやせん。夫から逓信大臣に逐一事情を報告に及んでやりました。僕が大臣に手紙を出したのは生まれて初めてヾす。尤も逓信大臣の名を知らなかったから二三人に問ひ合して大浦君だといふ事を確かめてかいてやりました。あの手紙を見て郵便配達の取締りを厳にして、且延着の理由を僕の所へいふてくれば大臣だが、平気で居るなら馬鹿だ―ねー君。」と。日露戦争前後から通信の検閲も始まったといわれており、もし、漱石が検閲を前提に手紙を書いているのだとしたら、大浦兼武に聞こえるように「馬鹿」と言っていることになる。盗聴を知りながら電話で警備公安警察担当者の悪口を言うようなものである。
 以上のように松井茂は日比谷焼打事件の警備担当者であり、事件後の対応も行ったのであった。いわば「日比谷焼打事件」は松井茂の代名詞のような事件であり、その事件を漱石は『吾輩は猫である』で「警察の逆上」と呼んでいるのである。これが松井茂の警察政策の風刺でなくてなんであろうか。



6.「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ」―「番人呼称問題」と「武士」 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は『吾輩は猫である』で「もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂である。」(第十話)と書いている。「探偵」は「良民が金を出して雇っておく者」なのである。
 さらに漱石は自らの生い立ちを連想させつつ、「この主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御上の御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から云うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ているのだが、実際に臨むといやにへえへえする。主人のおやじはその昔場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となってかように子に酬ったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。」(第九話)とも書いている。
 特に「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ている」という部分が気になる。現代人から見れば何でもない表現だが、この一言は大日本帝国憲法下での警察官に対する考えとしては、あってはならないことであった。
 また一九〇五年(明治三十八)当時、「主人のおやじはその昔場末の名主であった」世代がいう「番人」には、現代とは異なる意味あいがある。特に江戸当たりで、警察誕生の歴史を知る者にとってはなおさらである。漱石の父は明治維新以降は警視庁に出仕し、漱石の一番上の兄も警視庁で翻訳の仕事をしていた。漱石の父は、江戸時代の警察的仕事が英米型警察制度に変わり、その英米型警察制度が大陸型警察制度へとめまぐるしく変わっていく過程を目の当たりにしたことになる。
 漱石は、『文学評論』の「十八世紀の状況一般 五、倫敦 辻番」で、「日本で御一新前にあつたと云ふ辻番の様なものがあつた。(巡査ではない。)ウオツチマンと称する奴である。是は矢張り番太郎の如く貧乏人から募集した者で、六尺棒を突いて夜中巡回して歩く。日本では『火の用心』とか何とか云ふのだが、倫敦では時刻を報じながら又天気模様を怒鳴りながら歩いた『十一時すーぎ雨ふーりの夜―』と云ふ様な事を申しながら町内を廻つて来る。番太の小屋は極く小さな箱小屋で、交番より小さかつたと思はれる。時々いたづら者が居つて、辻番が居眠りをして居る所を見済まして、箱ごとひつくり返すと云ふ様な騒ぎが起る。」と、十八世紀のロンドンの「ウオツチマン」(辻番)を説明するのに江戸時代の江戸の「番太郎」や「番太」を例に説明している。
 江戸時代の「番人」というのは、『明治初年の自治体警察 番人制度』(東京都、一九七三年)にあるように「元来町の番人と呼ばれるものは、江戸時代においては、町地の木戸番の番人や武家地の辻番などで、甚だ卑しく見られており、木戸番の番人は、『俗に番太郎または番人』と呼ばれ」ていたのである。
 この江戸時代の番人とは別に、明治初年に番人制度があった。1873年(明治六)1月、政府は、東京府に番人を設置すると、「全国一様に番人と改めるよう六年六月二十四日達第二百二十五号で通達し」、番人の職務を行うものは、すべて「番人」と改称するよう命じた。この明治時代の番人制度はイギリスなどの自治体警察をモデルにしたものであった。解放令後ということもあり、番人制度の番人はあらゆる身分の人々から構成されていた。しかし、江戸以外にも「番人」が蔑称であった地域もあり、江戸時代に差別されていた人々と同一視されることを懸念する者たちがおり、蔑称との一致から「番人呼称問題」が起こった。
 日本警察の父川路利良も番人と同一視されることを嫌った。川路利良は「警察制度につき建議」(一八七三年)のなかで「本邦尚武士あり。然るに士を閣いて用いず。」「所謂番人ナル者、卑弱ノ傭夫之ヲ以テ輦轂ノ下ヲ鎮ズルハ、体裁ヲ失ウ」と述べ、この建議の「大意は、総て警保権限を分明にし、番人を排し邏卒を用ひ、民費を省き人身を安ずるを要す」というものであった。その後、川路は「警察官は武士である」と喧伝しはじめ、それとともに警察組織から被差別者が排除されていった。
 警察誕生の歴史を知る者にとって「番人」という語を使った警察批判は、極めてきつい一言なのである。じつは戦前の警察研究の第一人者とされる松井茂の警察史には「番人」と「番人呼称問題」の詳しい説明が欠けているのである。
 さらに、一九〇二年(明治三十五)の日本弘道会四谷支部会での「公徳と警察」と題した講演で松井茂は、「我邦の警察を欧米の警察などと混同し殊に亜米利加主義などを注入して人民の為の巡査であるから巡査は公僕であると主張する人があるこれは非常に間違つて居る」「日本の警察官を亜米利加の様な者と誤認されては大変の事」と述べているのだ。
 その松井茂に「番人呼称問題」の経緯を知った上で「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ」と言ったらどうだろうか。漱石の父が江戸時代に名主を勤め明治維新後警視庁に出仕したことや漱石の一番上の兄が警視庁の翻訳係をしていたことを考えると、漱石が明治初年の「番人呼称問題」を知っていた可能性は極めて高いのである。いや、漱石が警察を風刺していたとすれば、当然、松井茂の『日本警察要論』(警眼社、一九〇二年)を批判するくらいの知識はもっていたはずである。
 このように漱石の「巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ」という一言は、松井茂を暗示するばかりでなく、明治初期の警察制度の変遷の要因と警察組織の内実をも批判する極めてきつい一言なのである。また、漱石が『吾輩は猫である』で、警察関係者が「警察官は武士である」と喧伝するとともに、警察組織から被差別者を排除していったことをも批判していたと考えれば、漱石が島崎藤村の『破戒』を絶賛した理由が容易に理解できるのではないだろうか。それにしても、漱石が絶賛した自然主義文学が、国木田独歩の短編『巡査』と島崎藤村の『破戒』というのもなにやら暗号めいていて興味深い。



7.「模傚」(もこう)と「模倣の法則」― 穂積陳重の「模傚性と予防警察に就て」 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は『吾輩は猫である』で「模傚」(もこう)について以下のように書いている。
「人間の用うる国語は全然模傚主義で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚はかくのごとく至難なものである。」(第五話)と、「人真似」という語を使って人間には完全な模傚の能力がないと指摘している。
この「模傚」という語は現在では「模倣」と言われることが多い。『野分』では「模倣」を使って「仏蘭西のタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。」とタルドを引用している。タルドは『模倣の法則』で知られているフランスの社会学者である。
 漱石と同じく「模傚」(もこう)という訳語を使っている学者がいる。それは松井茂の恩師穂積陳重である。穂積は、「模傚性と予防警察に就て」で、タルドの「模倣の法則」(穂積は「模傚」という語を使用)をもとに、模傚を「善模傚」「悪模傚」に大別し論じている。しかし、予防警察の対象について論じているため、「善模俲」については詳述されていない。
 穂積が「悪模傚」について例示した事項と、松井茂が『警察の本領』(博文館、一九〇六年)で広義の警察教育のために例示した事項に共通点が見られる。穂積の定義による「善模傚」が松井茂の主張する広義の警察教育(公徳教育)にあたると思われる。
 松井茂の「我が警察界の恩人 法学博士穂積陳重先生」(『警察協会雑誌』)によれば、一九〇二年(明治三十五)十二月六日、松井茂を警察官僚へ導いた穂積陳重が、警察協会において、タルドの論稿を参照して、「模傚性と予防警察に就て」と題した講演を行っている。そこで先ず、穂積は、模傚には、「善模傚」、「悪模傚」の両種があり、そのうち「悪模傚」のみが予防警察の目的物となると定義した。また、模傚を「模傚の主体」、「模傚の客体」、「模傚の媒介物」に分類し、「模傚の主体」とは「真似をする人」、「模傚の客体」とは「手本となるもの」、媒介物とは「其仲立ちとなるもの」のことであると定義した。
 「模傚の客体」には、「エキザンプル、センター」― すなわち模傚中心 ― というものがあり、それを中心として模傚は拡散し、模傚中心が社会の上級にあるとき、富者が模傚中心となった場合、「國體の首領、親方、教師政党の有力者、一地方の有力者の如き主導的位置に立つ者が模傚中心と為りたるとき」は、伝播力が非常に強い。「模傚の主体」は、感受性に左右される。「感受性とは伝染し易すき性質を指す」もので、感受性の強弱はその主体と模傚中心との距離、接触の多少に比例する。距離の遠近とは地理的距離ではなく心理的の遠近を指し、遠隔の地であっても、電信、電話その他交通上の便利な場所は心理的に近く、新聞を読む者は読まない者よりも相互の距離が近い。
 「模傚の媒介物」とは、「模傚の主体」と「模傚の客体」との間に立って「模傚中心」を客体に紹介するものを総称し、書籍、新聞紙、演説、広告、芝居、見せ物、講談、落語、碑、書信等であり、模傚は風力、蒸気、電気、に伴って陸を走り海を渡るもので仮に外国にて生じた事柄であっても、速に我国に伝播することがある。伝播力の強弱は社会的賞賛、同情又は許容に比準し、媒介物に関する伝播力の強弱はその公私に比準する。「公の媒介物」は「模傚の客体」との接触多く、「私の媒介物」はその接触が少ない。よって、予防警察は特に「公の媒介物」に注意しなければならない。などと述べた。また穂積は「慣習の起源」(明治四十年)で「模倣」と「暗示」の関係について、「受動的に之を観れば模倣なり、発動的に之を観れば暗示なり」と定義している。
 一九〇六年(明治三十九)、松井茂は、警察観念を一般に普及させる目的で『警察の本領』を著し、警察教育の必要性を強調した。この『警察の本領』に穂積陳重の上記の講義の影響が見られる。
 松井茂は、警察教育を狭義と広義に分類し「狭義に於ける警察教育とは警察官其のものに對して教育を施すことで、広義の警察教育とは社会公衆に警察上の知識を普及せしめ、警察思想に対する一般の同情を得ることであ」ると定義した。そして、「知育と、警察の関係に就いては、家庭教育、学校教育、といふものの外に、社会教育といふことが最も警察に密接の関係を有して居ります、而して社会教育の中で警察上最も注意しなければならぬものは、新聞紙、小説、演説、講談、演劇、観物場、寄席、集会場、公園、勧工場、縁日、馬車、道路、汽車といふような類の者」であると述べた。これらは、穂積の例示した「模傚の媒介物」とほぼ一致する。
 さらに松井茂は、広義の警察教育(公徳教育)について、「社会に勢力のある人が率先して公徳の養成の事に力を致したならば大に効果のあることと思います」「教育家が公徳の率先者にならねばならぬ」「新聞紙は公徳養成上に就いては頗る効力あるものであります、新聞紙が社会全体に及ぼす所の勢力は非常なものであることは今更論を待ちませぬ―中略―常に新聞紙たるものは、公徳養成の率先者たることを信じて疑わぬ」、「公共団体員と云ふ者も公徳の率先者とならねばならぬと思ひます、貴衆両院議員は勿論、其他府県会議員町村会議員等の人々は、公徳の率先者とならねばならぬ、何となれば此等の人々は、自治体の率先者であり、衆望を担ふて居る者である、其位置からしても公徳の率先者でなければならぬことは疑なきところです、而して今日の実況は果たして、此等の公共団体員は善く天下に率先して、公徳の耳目となるや否やに就ては、賢明なる読者諸君の判断に任さうと思ひます」。「社会倶楽部其他諸種の団体と云ふものは、亦公徳の率先者とならねばならぬことは、論を待たぬ次第である」「警察官は又公徳養成の率先者でなくてはならぬ」などと述べた。
 これらは、穂積が例示した「模傚の客体」(手本)である「模傚中心」の内容とほぼ一致しており、穂積が「悪模傚」について例示した事項と、松井茂が広義の警察教育(公徳教育)のために例示した事項には共通点が見られ、穂積が模傚について「善模傚」と「悪模傚」があると定義したうちの「善模傚」が松井茂の主張する広義の警察教育(公徳教育)であったと考えられる。
 さらに松井茂は「群衆取締に就て」(『警察協会雑誌』第一五八号、一九一三年)で「群衆の分類に付ては種々の説もあるが、之を区別して異類の群集と同類の群衆との二つにすることが出来る」と群集を「異類の群集」と「同類の群集」とに二分して、「異類の群衆とは所謂野次的の類で火災場の群衆の如き類で」、「消防夫巡査の集団の如きは同類の群衆である」と説明して、「同類の群衆は適当に之を導けば其効果は大なるものである」と「同類の群衆」を適当に導く事が有益であると述べている。
 そして、「警察官の如きも金銭以外にある善き物ありといふ責務に尽すの観念を鼓吹し、大に自治的精神国民道徳の涵養に努め、一旦事あらば義勇公に奉ずるといふ健全なる群衆心理の状態に在らしめ」れば、「警察其のものの発達を見るのみならず、一警察官の健全なる模範によりて、其の感化は村民全体に及び頗る有益の結果を見ることを得る」と、「同類の群衆心理」を応用することによって、警察官を模傚中心として民衆をも感化しようと構想した。松井茂は、群集心理と模倣、暗示の応用によって、まず警察官の心理を操作し、ついで、模傚中心としての警察官によって民衆を感化することで、民衆への警察思想の注入を構想したのである。
 以上のように松井茂は、穂積陳重の模傚に関する研究の成果とタルドの「模倣の法則」を警察教育(狭義・広義含む)という政策に応用したのである。この警察教育が漱石の死後展開されて行く国民皆警察という政策に繋がっていくのである。いわば「模傚」は松井茂の警察教育、社会教化事業を象徴する言葉なのである。先に述べた被風刺者(模傚中心)の「人真似」(模傚)をする気をなくさせる風刺が持つ文学的な懲戒的効果は、松井茂の社会教化事業への攻撃にほかならない。



8.自殺論 ― 穂積陳重の「自殺の話」 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 『吾輩は猫である』の第三話で寒月が講演の練習をする「首縊りの力学」が、実在する論文をモチーフにしているということは有名な話である。この「首縊りの力学」が第三話で語られる前に、第二話に「首懸の松」や吾妻橋から身を投げる話が語られている。
 「『首懸の松さ』と迷亭は領を縮める。『首懸の松は鴻の台でしょう』寒月が波紋をひろげる。『鴻の台のは鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。―以下略―』」と。そして「○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は『今直に行きます』と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。」、「『―前略―水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。前と後ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです』寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織の紐を荷厄介にしている。」(第二話)と、吾妻橋から身を投げる話へと続いて行く。
 じつは松井茂に関連する論稿に「首懸の松」や「身投げ」について論じたものがある。それは、松井茂の恩師穂積陳重の一八八七年(明治二十)三月二十六日、大学通俗講談会における「自殺の話」と題した講演をもとにした論稿である。
 穂積はブラックジョークを交えながら、「生存競争と自殺とは全く正比例をなし、生存競争の劇しき國には必ず自殺者多く、生存競争緩やかなる時代には自殺者も随つて少く、其他、時と云ひ、所と云ひ、人種、職業、身分等に於ても、毫も右の定則を誤らず、徹頭徹尾自殺の多少は必らず生存競争の緩急に伴ふ」などと述べ、日本と欧州諸国などの統計資料を使って論証を試みて、「自殺は人類進化の一現象にして、生存競争の結果なり」と結論している。
 また穂積は「自殺は教育の進歩と共に増加する」「第一に、教育は人の脳力を発達し、人の思想力を強くしまするが故に、人をして劇烈なる生存競争に向はしめまする。又第二には、教育は多く人の脳力を用ひまするが故に、どうしても脳病、精神病等を増加し、随つて自殺者の数をも増すに至ります。」「教育は人をして生存競争の準備を為さしむる様なものですから、自殺を増加するの傾向あるは、之を統計上に徴しても争はれぬ事実と思はれます。」などと、自殺と教育の進歩との関係について指摘している。
 穂積は自殺の方法について論じ、「第一 成るべく苦痛の少なきもの、第二 成るべく確かに死するもの、第三 成るべく早く死するもの、第四 成るべく体裁の善きもの」と自殺の方法を四つに分類して、「四つの元素を兼る事多ければ多い程、人望のある方法」であるとしている。さらに「従来普通に行はれたる自死の方法」として、「第一縊死 第二溺死 第三銃死 第四傷死 第五毒死 第六投死 第七窒死 第八壓死 第九餓死 第十焼死」を列挙している。そして、これらの方法は「国々の風土人情」によって異なり、「人間は死に至る迄慾心を離れず、最もこころよき方法を求むる」などと述べている。
 また穂積は、特別な自殺方法についても言及し、ロンドンでのガス自殺の例を示したり、「倫敦の警察報告の中に、或る人破裂弾を三つ計り桃太郎の黍団子と云ふ塩梅に腰に縊り付け、『マッチ』にて導火に点火し、霹靂一声ずどんと破裂させて、粉な微塵に成つて死んだ者があります。」と爆死の例を示したりしている。さらに、イギリスでの鉄道自殺の統計を示しつつ、「我邦にても、此後は必ず壓死の数が増加するに相違ありません」と未来予測をしている。
 穂積は、自殺の予防法についても言及し、「首縊の松など稱ふ木の枝を切り、身投げの淵の取締りを付け、斷食堂を毀つ等の事は、幾分か自殺の誘導を少くする心理上の效能があります。」と、自殺の予防には「自殺の媒介物を奪ふ。」ことが大切であると述べている。ほかにも、「輿論と自殺とは大なる關係のあるもの」として、「我邦の如く輿論にて自殺を尊び、小説等にて英雄、豪傑、美人、才子などを自殺させる様では、とても自殺の減ずる事はありません。」と指摘し、「新聞、小説、芝居、狂言等にても、頻りに自殺を擯斥し、痛く之を排斥せねばなりませぬ。」と述べている。
 このように『吾輩は猫である』の第二話に登場する「首懸の松」や「身投げ」は、松井茂の恩師穂積陳重の「自殺の話」に「自殺の媒介物」として「首縊の松」「身投げの淵」と呼ばれ、例示されているのである。
そして穂積の「自殺の話」の「自殺は教育の進歩と共に増加する」、日本で必ず鉄道自殺が増加する、文明が進むにつれてガス自殺や鉄道自殺という新たな自殺方法が生まれるなどの未来予測を、さらに進めて考えていくと、不思議なことに『吾輩は猫である』第十一話の自殺論へと繋がっていくのだ。漱石の進化論的発想は、なぜか、穂積陳重の法律進化論に似ているのである。



9.非婚論 ― 穂積陳重の「婚姻法論綱」「離婚法比較論」「夫婦別居法比較論」 [第四章 『猫』にある松井茂の陰]

 漱石は『吾輩は猫である』の第十一話で非婚化する(非婚論)と未来予測している。この漱石の非婚論と松井茂の恩師穂積陳重の婚姻に関する論稿が類似している。
 穂積陳重は「婚姻法論綱」(明治十四年)「離婚比較論」(明治十八年)「夫婦別居法比較論」(明治十八年)などの論文を書いている。
 「婚姻法論綱」では、婚姻の歴史を「婚姻者の数」「婚姻の方法」に分類して論じている。まず「婚姻者の数」については、婚姻は「第一 太古 酋属共同婚の時代」「第二 上古 数夫一婦婚の時代」「第三 中世 一夫数婦婚の時代」「第四 近世 一夫一婦婚の時代」と進化していくという。穂積は「余我邦の現状を考ふるに、方今婚姻歴史第三世より第四世に移らんとする変遷時期に当るものゝ如し。」として、「猥褻の風を去り、公平なる両性交際を勧めば、一夫数婦の俗自ら廃棄し、婚姻進化最高点なる一夫一婦婚の域内に進入するの日や、期して待つべきなり。」と、日本が一夫数婦婚から一夫一婦婚の過渡期と指摘している。
 次に「婚姻の方法」に着目すると、婚姻は「第一 掠奪婚の時代」「第二 上古 売買婚の時代」「第三 中世 贈与婚の時代」「第四 近世 共諾婚の時代」と進化していくという。そして穂積は「婚姻進化の最高点を占め、婚姻沿革史中採集に発達する者は共諾婚にして、方今欧米文明諸国中に行はるゝ所の制度是れなり。」としている。この「共諾婚」の起源については「第一、婦人を財産視するの弊風廃棄せしなり。第二、各自独立の精神発達せしなり。」と述べている。
 日本については、「我國婚姻進化の度を推測せば、必ず方今我國の婚姻方法は、婚姻歴史第三世に在りて、贈与婚の時代に当る者たるを容易に発見するを得べし。而して、今我邦婚姻法を改良し、贈与婚の時世を去て共諾婚に遷らんとせば、先づ男女有別の悪弊を破りて、公正の交際の道を開き、婦女の教育進むに随ひて、漸々其交際の区域を広めば、竟に共諾婚の恵沢に浴するの地位に至るべし。」と法政策と習俗の弊を改良し、社会進化を遷移させようとの考えを示している。
 「離婚法比較論」(明治十八年)では、「我輩が離婚の法理を論究するに当りては、常に必ず道徳政治宗教の三論拠を参酌するを忘る可らざるなり。」として、離婚法を「(一)自由離婚の法律」「(二)離婚禁止の法律」「(三)制限離婚の法律」と三つに大別してその論拠について論じている。そして、離婚法の進化は「第一 自由離婚の時代(掠奪婚、売買婚、或は贈与婚の時代と符号す)」「第二 離婚法禁止の時代(贈与婚或は共諾婚の時代と符合す)」「第三 制限離婚の時代(共諾婚の時代と符合す)」「第四 自由離婚の時代(共諾婚の時代と符合す)」という順で進化するとしている。
 穂積は「第一世の自由離婚法には、男子のみ自由離婚の権ありて、女子は毫も自由ある事なし。」「第三世の制限離婚法に至り、始めて女子より離婚を請求するの権あるに至る。」「離婚法最高の程度に達し、第四世の自由離婚法を用ふるに至り、始めて男女共に自由離婚の権を得るに至る」として、「第四世の自由離婚法には、配偶者双方共に平等の自由離別権を得るに至る。以是観之、離婚は自由離婚法に始まり自由離婚法に終ると雖も、第一世の離婚法は真正の自由離婚に非ずして、第四世の離婚こそ真正の自由離婚とは称すべきなり。」と述べている。
 「夫婦別居法比較論」(明治十八年)で穂積は、古代には「自由離婚法」が行われていたが、キリスト教(カトリック)の普及によって「婚姻不解主義」が行われ、離婚が出来ないという弊が起こり、それを補うために「(一)結婚を無効となす。(婚鎖解除)」「(二)別居を許す。(寝食の離別)」という方法が行われるようになり、プロテスタントが起こって後、別居法は「(一)代用主義。(離婚禁止法の時代に行はる)」「(二)並用主義。(制限離婚法の時代に行はる)」「(三)仮処分主義。(制限離婚法及自由離婚法の時代に行はる)」という順で進化したと述べている。
 以上のように穂積陳重は、「婚姻法論綱」で婚姻の進化が「共諾婚」による「一夫一婦婚」で法進化の最高点に達する、「離婚法比較論」で「配偶者双方共に平等の自由離別権」がある「自由離婚法」で法進化の最高点に達する、「夫婦別居法比較論」「仮処分主義」で別居法の法進化の最高点に達するなどと述べている。穂積は「共諾婚」の起源を「各自独立の精神発達せしなり」と指摘しており、共諾も自由離婚も離婚の仮処分としての別居も、その起源を「各自独立の精神発達せしなり」ということに求めることができる。
 穂積の「各自独立の精神発達せしなり」という指摘は『吾輩は猫である』の未来予測の「当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因」(探偵化)という根拠と一致している。さらに婚姻法の進化が一夫一婦婚で終わるという必然性はなく、社会進化の結果、婚姻が困難になることも十分考えられるのである。つまり、婚姻法が不要になる時代が来るということも考えられるのだ。そのように考えると、漱石が『吾輩は猫である』の非婚論で「各自独立の精神発達せしなり」という根拠による婚姻法の進化をさらに進めて考え、探偵化(近代化)を批判したといえるのである。
 このように、漱石の非婚論は穂積陳重の法律進化論における婚姻法の進化の延長線上にあるといえる。『吾輩は猫である』の非婚論は、松井茂の恩師穂積陳重の一連の論稿に繋がるのだ。つまり、穂積陳重を介してではあるが、非婚論も松井茂を暗示しているのである。



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