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第六章 繰り返される探偵化 ブログトップ

1.警察精神界の革命 ― 暗示の為のスローガンの更新 [第六章 繰り返される探偵化]

 一九四九年(昭和二十四)、警察官の志気高揚のために警察大学校教頭(のち校長)弘津恭輔氏が、『新しき警察のために―國家と警察』を著した。弘津氏はその後、国際勝共連合・世界平和教授アカデミー理事、教科書正常化国民会議理事などを勤めた。
 弘津氏が、その「序」で「新しい警察制度が確立されて以来、警察法や警察制度に付いては多くの有益な著作が公にされたが、警察の本質、理念の問題や警察精神等の問題に付いては、未だ公刊された書物が見当たらない様である」と書いているように『新しき警察のために―國家と警察』は、戦後、始めて警察精神に関する問題について書かれた書物であった。
 弘津氏は、「嘗ては天皇陛下の警察官と自ら称し、またそれを信じ、それに誇りを感じていた警察官が、新しい憲法によって『公共の奉仕者』として規定され、日本国家の主権者は天皇ではなくして、吾々国民であると聞かされる。それはあまりにも大きな変革であり、正に警察精神界の革命である」と、「天皇陛下の警察官」が「公共の奉仕者」となったことを「警察精神界の革命」と位置づけた。
 また弘津氏は、「『陛下の警察官』と云うことが、今日、兎角の批判を受けるのも、警察官だけが民衆より一段上に立って天皇陛下の御名に於て民衆に命令せんとした一部の者の『思い上り』に原因があると思う。『陛下の警察官』というスローガンが、嘗ての全警察官の志気を鼓舞したのは、警察官は一党一派の私兵ではない、国家公共の利害を考え、公正な立場から正義を遂行すべき者であると云うことにあったのである。即ち、それは天下の公僕たるの誇りと自負に由来したものであった。」と、「天皇陛下の警察官」というスローガンと「公僕」を結びつけた。
 弘津氏は、「警察精神界の革命」の結果、「天皇陛下の警察官」から「公共の奉仕者」となった警察官は「公僕」と呼ばれるようになったというのである。しかしこれは、松井茂が「暗示には簡潔の言葉が必要にして、情意投合とか、肝膽相照すとか、以心伝心とか、警察の民衆化とか、何れも皆其の一例である。」と考え、群衆(巡査)に対する暗示として使用した「警察の民衆化」というスローガンと同様の意味しか持たないのであれば、「天皇陛下の警察官」が「公共の奉仕者」や「公僕」になったところで、暗示のためのスローガンが替わったにすぎない。
 さらに、弘津氏は警察教養について、「心ある者の口から警察教養の重要性が強調せられ、真に正しい警察の再建が叫ばれつつあるのは偶然ではない。政府に於ても、従来の警察講習所を中央警察学校に昇格せしめ、更に警察大学校と改称し、その下に数校の管区警察学校を設け、府県警察学校をその下に置き警察教育の体制を整えた」と述べている。
 警察大学校の設置は、松井茂が『警察讀本』(日本評論社、一九三三年)の「警察大学設置の提唱」で「社会の進運が警察行政の力に期待する事の益々多き現状において、誠に我国のような世界に比類なき警察組織を有する国柄にあっては、将来警察大学を設くべき時運に到達すべきことも、敢て架空の希望ではない。」と述べたことと、一致している。松井茂のこの言葉が、第二次世界大戦後、警察大学校として実現したのである。
 このように、松井茂の「警察精神」は松井茂先生自伝刊行会委員であった弘津恭輔氏を媒介として第二次世界大戦後の日本に生き続けることになった。そしてこの弘津恭輔氏の考えは、彼一人のものではなかった。そのことは、『山形県警察史』(山形県警察本部、一九七一年)の「混沌たる戦後の警察界において整然たる理論をもって明確にその方向をさし示したのが、中央においては時の警察大学校教頭であった弘津恭輔であり、本県においてはその流れを汲んだ警察学校長花輪吾助であった」との言葉が証明している。花輪吾助氏は、一九四八年(昭和二十三)二月十日の警察法施行に先立ち、山形県警察が山形県警察練習所の名称を山形県警察学校と改めた際、初代山形県警察学校長(教養課長兼務)に任命された山形県警察の警部であった。
 花輪氏のように「警察大学校教頭であった弘津恭輔」の「流れを汲んだ」警察大学校修了者(警察幹部)は、山形県警にだけいたのではない。弘津恭輔氏の流れを汲んだ警察幹部は、全国の警察学校の指導者として存在したのである。このような警察官を模傚中心として、松井茂の「警察精神」は現在の警察に受け継がれていったのである。そして松井茂の模倣の法則を応用した模傚と暗示は、心理学的な監督、イメージによる操作へと進化し、より精緻に人間をコントロールできるようになっていくのである。



2.警備警察における「報道及び宣伝」― 危機管理論のプロトタイプ [第六章 繰り返される探偵化]

 一九五一年(昭和二十六)、警察大学校教授杉本守義氏が『警備警察の基本問題』を著し、その中で大衆に対する「報道及び宣伝」について論じている。杉本氏によれば、「報道及び宣伝」は「警察との密接不可分の関係」にあるという。
 杉本氏は、「警察殊に警備警察と報道(解説を含む)及び宣伝の問題は、警備警察の使命と報道、取締と宣伝、或は警備情報の蒐集と報道又は放送等との関係に於いて、極めて重要な意義をもっている」と述べている。なぜなら、「警備警察の取締が直ちに大衆又は集団或は企業経営者側の反響を呼び起し、利害相反する錯綜せる意見又は世論となって現れ」「此の場合警察が如何に報道機関を通じて又は独自の宣伝を試みるかの問題に当面せざるを得ない場合がある」からである。そして、この「宣伝は警備戦術の手段として(用度作戦の一方法として)、行われる場合もあり得る」という。
 杉本氏によれば、「報道(Inoformation,News)」と「宣伝(Propaganda)」の違いは、「報道は必ずしも対立感情を予定したものではない」のに対して、「宣伝には相手方の対立感情が予定」されており、対立感情を前提としての考慮がなされることにあるという。
 報道は「客観的事実を述べるもの」で、客観的事実の省略があっても、事実を意図的に隠蔽することはなく、解説において主観的要素がわずかに混入する。これに対し、宣伝は主観的要素が多分に含まれており、意図的に事実の一分の隠蔽または誇張をする。宣伝は「被宣伝の自発性を損なうことなしに、多数者をして、宣伝者の望むように考え、感じ、行動させるための精神操縦手段」で、「被宣伝者の対立感情を刺激することなしに、その宣伝事項を承認させるための手段である」。そして、「宣伝は新聞報道と異り違法性の阻却の問題を考える要はない」という利点があるという。
 このようなことから杉本氏は、警察における「報道は事前事後に於いて行われる解説的な発表で」あり、「警察に於いての宣伝は、或宣伝が行われた後に於いて、警察の正しい在り方活動目的又は手段方針を述べて、相手乃至一般の自粛自戒と協力を自然に促す如き場合である。従つて、報道解説に見られるものよりも警察としての主観的要素なり、意見(見解)が極めて多いものである。」と報道と宣伝の違いを指摘する。しかし、「警備警察的に謂うときは、警察の報道利用も宣伝も警察活動の目的を理解し、協力を求めるために行われるのであるから、はつきり区別し得ない場合も実際問題として多い」というのだ。
 けっきょく杉本氏は、「報道(利用)も宣伝も大体に於いて、同じ目的を持つものとして、一般的には同視してもよい」と述べている。
 そして杉本氏は、「警察の報道宣伝の手段は通常は直接的行動によるものではなく、新聞、ラジオ映画、講演、座談会ポスターの掲示、広告、展覧会、勧告文の発表等が採用せられている」としつつも、「警察弱体化の世論あり、存在すらも疑われるように意気沈している場合の士気高揚策として、警察のデモンストレーション、又はアトラクションを行うことも意義ある」場合があり、「現実の犯罪又は不法越規自体の予防鎮圧に至る手段は勿論問題はない。只此の場合無用な多くの制服隊を顕現することは戦術である。」と、警察活動自体の宣伝化を明確に打ち出している。
 これに加えて杉本氏は、「不安な状況に対しては警察活動を活発に展開し、或場合には交通整理員又は交番勤務員の増強、或は警らの増強等に依り、時には制服警察隊の行進、其の他の行事により警察健全なることを示すデモンストレーションも行なってよいと思う。之が市民に安心感を与える一方法であろう。そしてそのような事態に対処する警察の在り方と態度について機先を制しての新聞、ラジオ等による報道が行なわれることも必要である」と、様々な警察活動の宣伝化の手法を列挙している。
 さらに杉本氏は、「悪宣伝に対しては、之を打破する真相発表或は逆宣伝が必要となってくる」と警察による逆宣伝の必要性についても言及している。この逆宣伝は、警察が宣伝の善悪を判断することから、悪宣伝に対してのみに限定的に宣伝が行なわれるとはいえない。警察のイメージを損ねる現実の出来事に対しても、その出来事が悪宣伝に利用される可能性があると警察が判断すれば、その現実の出来事が逆宣伝の対象となる。これは後に、危機管理論における危機管理広報として積極的に展開されることになる。
 杉本氏は警察官の士気高揚についても言及し、「不法行為を排除するに当たっては、個々の警察官の士気如何が、重大な影響を及ぼすものであるから、武装力の強化、種々の救済制度によって、後顧の憂なく敢然として事に当たらしめると共に、日常の教養及び表彰制度の如き精神的栄誉を与える事によっても亦士気高揚を計ることが肝要である。」と、装備の充実、顕彰、福利厚生等を警察組織内部の世論の形成のため、人事管理をも宣伝化することを主張した。
 このように杉本氏が、国民に対して「報道及び宣伝」を積極的に展開すべきであると主張したのは、「民主主義社会に於ける公僕は、国民の理解と協力によってその任務を完う出来るのであって、国民と共に在る警察が世論の支持なくしては強力にして適切なる取締は出来ないであろう。国民の不安に対しては安心と勇気を、誤解に対しては理解と協力を求める策が採られねばならぬ」と考えたからであった。この杉本氏の報道と宣伝に対する考えは、心理学的な監督、CR戦略やCI活動、危機管理論へと受継がれていった。



3.新しい監督者論 ―「心理学的な監督」 [第六章 繰り返される探偵化]

 一九五七年(昭和三十二)、当時警察大学校で警務関係の研究をしていた佐々淳行氏が『新しい監督者論』(立花書房、一九五七年)を著し、「倫理から心理へ」と訴え、従来の倫理学的な監督から心理学的な監督へ転換するべきであると主張した。ここでいう警務とは、一般官庁でいえば人事に相当するが、元警察官僚の松橋忠光氏は警察官の自殺や悲劇の原因は「人事」にあると指摘している。
 佐々氏は、「一応人格が形成された幹部警察官を相手に、具体的な実践方法を伴わない道徳主義教育を施しても、なかなか浸透し難いばかりでなく、かえって道徳主義の立場の最も危険な敵であるところの免がれて恥なき〝隠れたる悖徳者〟『偽善者』を、あるいは面従腹背の傾向を、生む結果を招く」と、警察の道徳主義の限界を指摘し、「″隠れたる悖徳者″、『偽善者』」と「面従腹背の傾向」を排除するために、心理学的な監督の推進を提唱した。
 部下の私的な生活についても心理学的な監督を行う監督者に対して、以下のような注意事項を列挙している。「職務上の地位を利して管内をたかってあるいたり」「部下に煙草をたかってはいけない」「部下の持物を露骨に欲しがったり、暗にねだったりしてもいけない」「職務上の地位を利用した買物は慎しむこと」「警察手帳を濫用してはいけない」。とくに「家族づれで手帳で交通機関に只乗りしたり、映画館に入ったりする不心得者もいるが、警察の威信を傷つけるばかりか、部下に非常な悪影響を及ぼす」など、ほかにも細かな注意点をあげている。このことは、注意しなければならない現実が存在することを示している。
 また佐々氏は部下の監督に利己心と欲望を利用することを推奨している。それは「殉教者的な考え方をすべての人に期待するのは無理」であり、「平凡人の場合は、義務を果すことに一種の利益を見出し、他人のために働くことは結局得だと信ずるように指導することを考える必要がある」からである。
 そこで佐々氏は「人間は必ずしも自分の利益ばかり考え、自分を守ってばかりではなく、同時に〝よいことをした〟〝立派な人だ〟と人からほめられたいという欲望を抱いている。特に、ひねくれた者や劣等感を抱いている者、消極的な目立たない者は人一倍、大いに認めて貰いたい心理が強い。そこで、利己心や虚栄心等に働きかけて〝小さな損をしても大きな得をとれ〟と指導し、狭い視野の利己心からすれば一見して損にみえる行為も、友情とか信用とか人望とか、無形の大きな財産を得ることとなり、結局は己れを利する効果を持つものだと納得させるように心理的に誘導すると、利己心は最大限に利用出来る。」という。
 佐々氏は、部下の心理学的な監督の例として、会議、表彰、賞賛、褒賞などをあげている。例えば会議では、「会議に参加し、その発言が採用されると、部下は警察活動の企画とその展開に自分も参画しているのだとする誇りを感じ、自分の存在価値をみいだし、警察活動に対する民衆の賞賛や非難、或はその対外的影響などを、自分自身の問題として意識するようになる。」。そして、消極的な者にも発言させ、「会議の席上で、日頃劣等感を抱いている者や、ひねくれている者、消極的なオズオズしている者に発言を求め、それを上級監督者が支持したり、採用したりしてやると、非常に喜ぶものである。大して価値のない発言でも、実害のない限り一応聞いてやる」ことなどを推奨している。
 表彰には、必ずしも制度的な公式の表彰ばかりでなく、事実上の表彰の仕方があり、「部内の教養誌への掲載も効果的」で、「新聞紙上の、『もの申す』欄等に善行として掲載されることは形式的な公式の表彰よりも勝って警察官に対する刺戟となる。その意味で新聞記者との友好関係を保ち、閑種(新聞記事の埋草)として自分の直属部下をいつでも載せて貰えるという態勢をつくっておく広報的な努力も上級監督者の任務の一つである」と、新聞や警察機関誌の利用を推奨している。
 称讃することも、士気高揚の効果が得られる。「言葉による称讃は、もっとも安あがりな、しかも効果的な方法である。そして、賞める時は、訓示、会議などの機会を利用して多数の人々の前で賞めると有効である。部下のすべてについてどこかよいところを探して誉めてやり、会員に〝自分は監督者から何かの点で認められている〟と思い込ませておくと、皆懸命に働くようになる。」
 そして、「褒賞の効果は、実質的利益が伴うだけに更に大きい。外勤等で公衆処遇の改善等を勤務重点として打出す時、それに褒賞なり、或は勤務加点をどしどし行うと、面白いように重点が推進される。〝今度の主任は公衆処遇に関心が強いな〟と部下達は敏感に悟り、且つ、その重点に従うことに自分自身の利益を見出せば、争って公衆処遇のいいところをみせようとするようになるから、結果的にではあるが、公衆処遇が改善される。そして、民衆の信頼が深まり上司の信頼があつくなってくると、それを裏切ることができなくなり、いつのまにか、功利的な動機からではなしに、奉仕観を持つようになる。」などと佐々氏は述べている。
 これらの佐々氏が提唱する心理学的な監督方法は、部下に利益考量を習慣付けることによってその行動の操作を試みることであり、仮に「殉教者的な考え方」と外形的に見える行動であったとしても、その行為は利益考量からくる動機への反応でしかない。佐々氏は、「いつのまにか、功利的な動機からではなしに、奉仕観を持つようになる。」と主張するが、その転換の根拠は無い。このことは、佐々氏の主張とは異なり、道徳性の向上ではなく、利己的な動機から外形的・形式的に道徳的に見える行動をするにすぎず、利益考量が習慣化されることによって、目先のほんのわずかな利益をもたらす動機に直面した際にも、反射的・機械的にその目的を達成するための行動を選択することにしかならない。そのことは、日々新聞記事の埋め草になっている警察官による盗撮などの理解しがたい行為が証明しているといえるだろう。漱石の比喩にならって表現すると、『新しい監督者論』は「器械的+探偵主義」に貫かれているということになるだろう。
 佐々氏の心理学的な監督方法は、松井茂が一九一三年(大正二)に「群衆取締に就て」で、「警察官の如きも金銭以外にある善き物ありといふ責務に尽すの観念を鼓吹し」と、群衆心理を応用したことと変わりない。また杉本氏が『警備警察の基本問題』で警察官の士気高揚のために、装備の充実、顕彰、福利厚生等が必要だと主張したことと一致しており、警察における人事管理が警備警察に含まれていることを示している。このことは、企業における人事管理と警備警察との類縁性をも示唆しているといえるだろう。
 漱石が『吾輩は猫である』(第十一話)で探偵的な人間について「寝てもおれ、覚めてもおれ」で、「どうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけ」、「二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ない」人間と述べたが、佐々氏が提唱する心理学的な監督方法で部下に利益考量を習慣付けることは、「自己の快を欲するエゴイズム」を鍛え、シャーロックシンドロームに罹患した人間を大量生産することになりはしないだろうか。まるで、漱石の「倫理」から「自殺学」へ(第十一話)との未来予測は、佐々氏の「倫理から心理へ」との言葉を風刺しているかのようである。



4.CR戦略 ―「警察官は良い印象を人に与えなければならない」 [第六章 繰り返される探偵化]

 原野翹氏(『治安と人権』岩波書店、一九八四年)によると、一九七〇年代、日本警察は、アメリカ警察のコミュニティ・リレーションズ(CR)を移植して、「国民と警察との間に暖かい血を通わせ、国民の関心を警察の関心とし、また警察の関心に国民の協力が得られるような緊密な関係を樹立する」ことを目指したという。原野氏がいうコミュニティ・リレーションズとは、パブリック・リレーションズ(PR)に重点を置いた警察活動のことで、一連の施策はCR戦略と呼ばれた。
 アメリカの暴動に関する大統領諮問委員会の委員であったR.M.モンボイスによれば、CR戦略とは「警察と、警察が奉仕する社会とのギャップを埋めるための努力である」(R.M.モンボイス 渡部正郎 訳『市民と警察』立花書房、一九六九年)。そして「警察のコミユニティ・リレーションズとは、文字通り、警察とコミュニティのメンバー及び全体としてのコミュニティとの関係のことである。これにはヒューマン・リレーションズ、人種関係、公衆関係、報道関係が含まれる」という。
 そして「警察の第一の任務は、法と秩序を維持することで」、「一般市民が、法の執行において、市民としての役割を果たしてくれるかどうかは、一般市民がその市民の役割をどれだけ認識しているか―換言すれば、警察に対し、どういう感じをもっているかにかかっている。」という。つまり、警察のイメージが重要となるというのである。そのため、「警察の第一の仕事は、警察のイメージがどういうものかを認識することである。」という。
 モンボイスは、「個個の警察官の役割」について論じて、「警察の正しいイメージを打ちたてる上において、それどころか、われわれの生活そのものを正しく打ち立てる上においてもっとも重要なのは、警察官自身である」として、「個個の警察官は、警察そのものがそれに姿を写す鏡である。賢明な警察官は、公衆の目にできるだけ好ましく写るように努力する。」と述べている。
 しかしモンボイスによれば、「警察官の仕事は人を批判することにある。警察官の公の生活は、疑問から成り立っている―それから否定的な答えを引き出そうとする疑問から成り立っている。警察官は不正を探し求めなければならない。そうしなければ、有能な警察官とは言えない。このため、警察官は余ほど注意していないと、いつの間にか、ここに何か不正はないかという哲学で、自分の人生を成り立たせてしまいがちなのは事実である。」という。これに加えて「警察官は一日のうちに何度もノーと言わなければならない。われわれは誰でもノーと言うことに快感を覚えるようになるものだ。こうして警察官にとって独善的に見えることを避けることが非常に困難になる。」という。
 このような警察官が「好ましい印象を身につける」ためには、①「外見」、②「動作」、③「態度」、④「知識」が大切であるとモンボイスはいう。①「外見」については、「制服の警察官」が、「身なりを整え、清潔な制服を身につけ、問題のない挙措動作をしていれば、人人は、警察官を、警察を、制服とバッヂとが表わす象徴を、信頼するようになる」。②「動作」については、「動作は、個個の警察官の信念、プロフェッショナルリズム、訓練、を表す。」「ぶらぶらしているという印象は与えない」「物により掛かるな。街頭ではつばをはくな。煙草を吸うな。」という。それは、「良くない動作は、それが無ければ与えられたかも知れない好ましい印象をぶちこわしにしてしまう」からである。③「態度」については、「警察官は、思いやり、何かあったら助けたいという気持、を顔に現わしていなければならない」。それは、「威圧するようなやり方に特有な態度を示す警察官は、好ましい警察の印象を著しく傷つける」からである。④「知識」については、「すべての警察官が自分の仕事の責任と使命を熟知していなければならない。」という。それは、「自分の仕事についての基礎的な、専門的な技術を身につけていない警察官は、公衆に対する好ましい印象を作り上げることはできない。」からである。
 さらにモンボイスは、「多くの人は、最初に接した一人の警察官の行為と態度を基として警察官全体の印象を作り上げ、いつまでもそれを忘れずにいるものだ」と指摘している。そのため、「警察官は良い印象を人に与えなければならない―警察官は、意識的に良い印象を与えるように努力しなければならない」という。モンボイスが提唱するCR戦略では、個々の警察官のイメージが極めて重要となるのだ。
 警察の良いイメージをつくるためにモンボイスは、警察官は「微笑」せよという。「友好的であるということを持続させ確かなものにするために微笑せよ」という。「微笑は、凝固まった考えに打ち勝ち、偏見にも、老婆の長話にも、打ち勝つ」、「とにかくあいつはいいやつだと警察官を人に思わせる」ことが必要だというのである。
 このようなCR戦略は「警察のイメージ」作りにすぎないとの非難を受けかねない。そのことを意識していたためかモンボイスは「形式的なパブリック・リレーションズのプログラムによって得られる警察のイメージは、それが、警察の現実の価値を反映するものでなければ、表面的な価値しかない。評判と本当の性格との間には違いがある」と述べている。だが、市民には「警察のイメージ」を知ることはできても、「警察の現実」を知ることは極めて困難である。そして、CR戦略によって警察と社会のギャップが埋められてしまえば、一般市民が「警察のイメージ」と「警察の現実」とのギャップに気付くことはないのだ。
 このように、CR戦略では、個人として、または集団としての個々の警察官の行動、態度、私行によって良くも悪くもなることから、警察官には、警察のイメージを高めるための行動が要求されることになる。結果として、警察官は警察のイメージに合わせて行動しなければならないということになり、警察のイメージを操作すれば、警察官の行動をコントロールすることができるようになる。そして、この作られた警察のイメージを信じて市民は行動することになるのである。
 このようなCR戦略は、第二次世界大戦後アメリカから移植された民主的なイメージを持っている。だが、警察のイメージを社会のイメージへと展開すると考えれば、警察官を模傚中心として国民皆警察化を目指した松井茂の社会教化事業の手法を、イメージという概念で上手にまとめて表現しただけのように見える。そして松井茂がナチスの政策を絶賛していたことを考え合わせると、警察の「道徳性教育教化機関」としての機能は、普遍性をもった近代文明の特徴に見えてくる。



5.CI活動 ― 警察のイメージづくりとその管理 [第六章 繰り返される探偵化]

 一九九四年(平成六)六月二十四日、「警察法」改正を公布し、七月一日より施行した。警務局および刑事保安部を廃止し、生活安全局、情報通信局(通信局の改称)、長官官房国際部を新設、警察署の下部機構としての交番を正式名称化した。旧警務局の警察職員の人事、警察教養等の事務は長官官房に移され、生活安全局の所掌事務として、「犯罪、事故その他の事案に係る市民生活の安全と平穏」及び「地域警察その他の警ら」に関する事務等を新設した(白藤博行「警察法『改正』の行政法学的検討」『各国警察制度の再編 法政大学現代法研究所叢書14』法政大学出版局、一九九五年)。この「警察法」改正によって、警察活動の拡大が図られ、日本警察は新たな進化の段階に入った。
 一九七〇年代、日本警察は「国民と警察との間に暖かい血を通わせ、国民の関心を警察の関心とし、また警察の関心に国民の協力が得られるような緊密な関係を樹立する」ことを目指してCR戦略を展開した(原野翹『治安と人権』岩波書店、一九八四年)。これに加えて一九九〇年代からは、従来からの慢性的な警察官不足を解決することを理由として、イメージアップのためのCI活動(理想的な企業イメージづくりとその管理[警察の場合は「理想的な警察のイメージづくりとその管理」といった意味になる])を積極的に展開している。 現在、日本警察では、パンフレット、ポスター、懸垂幕、ダイレクトメール等既存の広報媒体の利用に加えて、テレビやプロモーションビデオ等の広報媒体の利用、警察官志望者の特性を分析した上での積極的な勧誘、新庁舎の建設、独身寮の建設、婦人警察官の積極的採用、一流スポーツ選手の採用、警察学校の教養内容の改善等々、イメージアップのためのCI活動を積極的に展開している(河上和夫ほか『講座日本の警察 第一巻 警察総論』立花書房、一九九三年)。
 これにあわせて、警察協会、交通安全協会、町内会、防犯協会、警察官友の会等、警察主導の民間団体の広範囲な組織化がすすめられている(日本弁護士連合会編『検証 日本の警察』日本評論社、一九九五年)。そして、警察官は、「警察官個人が『一人一人が広報マン』との自覚に立って国民の信頼を得るにふさわしい職務執行をすることが広報の基盤となる」(篠原弘志「警察と報道」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』)と、国民の環視をイメージすることによってその行為を留保し一定の行動をとることをひとりひとりの警察官に求めている。
 警察の「サービス的活動は、戦前の行政法学に言う『警察(作用)』の枠をはみ出している」(小野次郎「市民とともにある警察活動」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』)といわれており、「広報啓発活動」「スポーツ指導」「社会奉仕活動の指導」「警察音楽隊の活動」「相談業務」等多種多様な「警察のサービス的活動」が存在する。その一つに警察官のボランティア活動がある。警察官のボランティア活動は、「警察官が自分の損得ぬきの奉仕精神で、地域の人々に対してボランティア活動をしてくれるということになると、普通の人ならば感激をし、感謝の気持ちを持つと思う」。「その地域の人々の感激や感謝の気持ち(心の動き)が、具体的には地域安全活動や情報提供、交番連絡協議会活動など各種警察活動に対する理解と協力という形になって現れてくる」(「交番日記」『日刊警察新聞社』一九九七年九月三〇日〈火〉)と、「普通の人」を対象に考えられている。
 このような業務を行う警察官は、「階級」は栄誉であるとの理解から、「階級は、それぞれ異なる能力と個性を持った多数の職員を―中略―分類しようとするものであり、その意味で『人の記号化』」(宮園司史「警察官の階級制度について」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』)がなされている。そして、記号化された警察官にとっての一番身近な市民が、広報活動によって警察活動に理解と協力を示す、「警察が頼りとする代表的な市民」である。
 この「警察が頼りとする代表的な市民」である「町内会組織を伝統的基盤とする交通安全協会、防犯協会などの―中略―警察協力団体は、建前上老若男女を問わない構成となっているから、これを主たる対象にする限り警察の普遍性を疑われることは少な」く、「英米の犯罪防止協会や犯罪者厚生委員会」や、「類似の活動を一部行っているロータリークラブ等と」比べ、日本の警察協力団体は、「『普通のオジさん、オバさん』が中心となっている」ことから、「平均的市民の声を代表している度合いがより高い印象」がある(小野次郎「市民とともにある警察活動」)といわれている。
 このように、市民全体の中から「警察が頼りとする代表的な市民」が切り取られ、警察によって警察にとっての「平均的市民」というイメージが形成され、「平均的市民の声」を反映させた警察のイメージが形成されている。「平均的市民」というイメージは、階級によって記号化された警察官によって、各種の警察協力団体に分節され記号化されている。そして、町内会組織を伝統的基盤とする交通安全協会、防犯協会など各種の警察協力団体は、警察が宣伝する警察のイメージを消費することによって、「警察のサービス的活動」(警察行政サービス)の一端を生産し、警察のイメージの中に自らを組み込んでいる。
 さらに、「一様に見える市民社会も、警察行政との距離や親密度の点から見るとかなりの差異を含んだいくつかのカテゴリーに分類することが可能」(小野次郎「市民とともにある警察活動」)とされており、記号化された市民は、警察のイメージに組み込まれると、警察が作ったイメージによる遠近法によって再配置され、それによって市民と警察との関係性をイメージすることになる。
 「地域警察」は、「市民全体を、警察を支援する特別な利益団体にする」(ジェローム・H・スコルニク、ディヴィッド・H・ベイリー 田中俊江訳「地域警察の目標及び形体」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』)といわれており、記号化された「平均的市民」は、警察のイメージに内包されることによって、市民相互の関係性を互に警察のイメージを介してイメージしていることになる。このようにして警察は、市民全体を「利益団体」化し、社会を警察のCI活動のシュミレーション・モデルの複製にしようとしているのである。 



6.危機管理論における危機管理広報 ― 警察のイメージのダメージ・コントロール [第六章 繰り返される探偵化]

 R.M.モンボイスは、『市民と警察』のなかで「人間には安全に対する欲求」があり、「人は誰でも自然現象と、恐怖からの安全を求める」と述べ、恐怖は、単なる想像からも生れ、「単なる想像から生れた恐怖でも個人の行動、社会の行動に影響を与える」と指摘している。この指摘は、穂積陳重の「『タブー』は行為の禁諱にして、其違反者は禍災を蒙るべしとの信念に基くもの」で、「原始的社会」においては「タブー」が警察の代わりに規範の実行を保障していた(『法律進化論 第三冊 原質論 前篇』岩波書店、一九二七年)との指摘を想起させる。
 モンボイスの指摘した「単なる想像から生れた恐怖」と元警察官僚の佐々淳行氏が一九九〇年代から展開している「危機管理論」における「危機」との間に共通点がみられる。佐々氏は「危機管理でいうところの危機は予測が全く不可能」と述べ、「危機管理」を「クライシスマネジメント」とも呼び、クライシスマネジメントとリスクマネジメントが対象とするものの差異について、「リスクはある程度予測可能」で「損得に関すること」で、クラィシスは「予測不可能で人命や組織の名誉あるいは存続にかかわる重大事件・事故」で「生死にかかわる問題」(佐々淳行「序」『危機管理宰相論』文藝春秋、一九九五年)であると述べている。この「危機管理論」でいうところの「危機」は「予測が全く不可能」であることから、何時・何処でということを事前に特定できない。何時・何処であるかを、特定できない点では、モンボイスが指摘した「単なる想像から生れた恐怖」と変わりない。つまり、人間の頭の中にあるイメージでしかない。
 佐々氏は「これまで危機管理のようなことは警察がやってきた」(佐々淳行『危機の政治学』新潮社、一九九二年)という。この「危機管理論」の性質は「危機管理広報」(危機管理記者会見、つまり「言葉による危機管理」)によく現れている。
 佐々氏は『日本の警察―「安全神話」は終わったか』(PHP研究所、一九九九年)で「危機管理広報の重要性」に言及している。佐々氏によれば、広報活動には「『積極広報(プラス広報)』と『消極広報(マイナス広報)』がある」という。「プラス広報とは、『都民の警察官』表彰、犯人逮捕に協力した市民に対する『警視総監賞』授与」「『交通安全運動』の行事に警視総監がたすきがけで参加するとか、アイドル歌手の『一日署長』パレードとか、警察のためになるいい面を広報し、理解と協力を求める広報である」。交通安全や防犯キャンペーン等々もこれに含まれる。「消極広報(マイナス広報)」とは、都道府県警察の不祥事事件や「警察官の非行事件の幹部の記者会見である」。そしてそれは、「記者会見のやり方ひとつでプラス広報にもマイナス広報にもなる」という。
 そして佐々氏は、警察の場合「言葉による危機管理」は、「発生した非行事件による警察の威信失墜などの被害を最小限に食い止めるための『被害局限=ダメージコントロール』の〝防衛的″な〝記者会見″(プレス・リリースのPR)である場合が多い」として、「民主警察の運営・行政管理には、この〝防衛的〟な〝記者会見〟(プレス・リリースのPR)技術が、上級職幹部に必須なプロフェッショナルなノウハウ」となると述べている。「危機管理記者会見」に際しては、「会見前に事前に『想定問答』をつくって討議したり、『さら問』(さらに問われた場合の意。国会の政府委員答弁資料作成上の常識)を準備して、Q&A(質疑応答)に備えて縦深陣地を構築しておくなど、PR(プレス・リリース)の訓練をしておくことが肝要である」(佐々淳行「危機管理広報の重要性」『日本の警察―「安全神話」は終わったか』)と、十分な準備をすることを推奨している。
 佐々氏は『新しい監督者論』でも、動物の一群を支配するボスに監督者(つまり警察幹部)を喩えて「このボスは、日常は〝獅子の分前〟(強者の権利)を恣にしておるが、一旦敵の襲撃を受けるというように非常事態に際しては、一群の危機を救うために命懸けで敵と闘い、自分を犠牲にしても群の安全を守ろうとする」「警察において部下が命令に従い、上司を敬い、待遇上の差別にも不服をいわないのは、いざという時には幹部に任せればよいという信頼感を感じているから」(佐々淳行『新しい監督者論』)であると述べている。
 何を幹部に任せればよいかというと、佐々氏によれば、警察は権力機構であるため警察活動に対する民衆の風当りは宿命的に厳しく、「殊に、警察事故、或は、違法もしくは不当な警察権の行使に対する民衆の非難攻撃は、無責任なまでに烈し」く「場合によっては全く適法妥当な執行にさえ、感傷的な、或は悪意にみちた攻撃が加えられる」という。そのため、すべての監督者はそれぞれの地位に応じていつ起るか分らないこの種の紛争に対する自分の態度について日頃から考えておく必要があり、「警察の一体責任を追及する新聞記者や世論の非難攻撃に対する幹部の答弁は、あくまで一体責任の原則に基いて慎重に行われるべきであって、間違っても部内における責任の所在を云々して、民衆や警察部内に、責任転嫁の遁辞と響く虞れのあるような、不用意な発言は避けるべきであろう。」という。
 つまり警察活動(「殊に警察事故、或は、違法もしくは不当な警察権の行使」)に対する「責任を追及する新聞記者や世論の非難攻撃」(批判的な世論)から組織を防衛することが警察幹部の務めであるというのである。
 このようなことから、佐々氏が提唱する「危機管理論」における「危機管理広報」で、広報担当者(警察幹部)が、「危機管理広報」の仮想敵としているのは、明らかに民衆の世論であり、防衛を試みるのは警察組織のイメージと警察組織内部の世論(志気)であるといえる。このことは、「危機管理広報」が、警察のイメージの危機を管理するという意味であり、「危機管理広報」はCI活動の応用であるということができる。たしかに警察の好ましいイメージが守られることにはそれなりの意味があるのかもしれない。だが、「危機管理広報」によって警察の非違行為がダメージ・コントロール(被害局限)されるという事は、結果的に被害者の主張と世論との間に不一致を生じさせることになり、被害者の自殺等の問題の原因となる可能性がある。そればかりか、警察職員が証言をしなければ、被害者にすらなれない場合もあり得るのだ。
 これに加えて、警察への批判的な世論に対してなされる「危機管理広報」は、一九五一年(昭和二十六)に杉本氏が『警備警察の基本問題』で「悪宣伝に対しては、之を打破する真相発表或は逆宣伝が必要となってくる」と警察による逆宣伝の必要性について述べ、宣伝によって積極的に世論操作することを主張したことと一致している。「危機管理広報」は、警備警察における世論操作の手法である逆宣伝の応用にほかならない。
 佐々氏が提唱する「危機管理論」の特徴が「危機管理広報」に良く表れているというのは、「危機管理論」では「危機管理広報」が最終の危機管理になるという特徴があるからである。事件・事故・自然災害などの危機管理が成功した場合はプラス広報、それらの危機管理が失敗した(対処不可能な危機の)場合は必ずマイナス広報に終わる。このマイナス広報は、ダメージ・コントロール(被害局限)することで、マイナスのイメージをプラスのイメージに変換することができるのである。このような特徴から「危機管理論」は、人間の頭の中にあるイメージ(想像から生まれた恐怖)に始まり、警察のイメージの危機管理に終わるといえる。一言で言えば、表象操作につきるということだ。
 現在、巷には「危機管理」という語が溢れており、「危機管理」という語を徴表にすれば、佐々氏の提唱する「危機管理論」が日本社会の隅々にまで行き渡っているといえる。そして佐々氏が主張するように「これまで危機管理のようなことは警察がやってきた」のだとすれば、「危機管理」の社会への浸透は、警察に代わって国民一人一人が「危機管理」を行うことを意味しており、それはすなわち、社会の警察化を意味している。
この危機管理の完全を期するためには、不都合な現実を秘密にする努力が、不可避であることは火を見るよりも明らかである。だが、秘密を完全に守ることが困難であることが、危機管理が必要な理由であり、けっきょく、不都合な現実から自主的に目を反らす自粛が、強制されることになる。「原始的社会」のタブーは自粛へと進化したわけである。自粛は、警察化した社会の徴表なのだ。
 第二次世界大戦下でひとたび国民皆警察化した日本社会は、戦後、「危機管理論」によって再び皆警察化したのである。しかし、皆警察化はそれで終わりではない。日本社会は再び一〇〇%の警察化を目指し、無限にループし、社会は漸近線的に皆警察化が進む、それがシャーロック・シンドロームである。



7.「警察職員は、精神障害、特にうつ状態になりやすい」―「THP」という監察 [第六章 繰り返される探偵化]

 モンボイスはCR戦略によってつくる警察のイメージは、警察の現実の価値を反映するものでなければ、表面的な価値しかないと述べているが、市民は「警察のイメージ」を知ることはできても、「警察の現実」を知ることはできない。CR戦略によって警察と社会のギャップが埋められてしまった場合、「警察のイメージ」と「警察の現実」とのギャップに気付くことができるのは、良識ある市民が警察職員になって「警察の現実」に触れたときだけになってしまう。とうぜん、このイメージと現実のギャップを埋めるための工夫(危機管理)が警察組織内に必要となる。
 警察庁は、警察庁長官官房人事課編『警務警察必携』(令文社、一九九四年)のなかで、「危機対処」のための組織の活性化、人間集団の運営管理に関して言及している。警察庁は『警務警察必携』で、「技術革新、高年齢化社会、女性の職場進出などここ数年急速な社会変化が進んでいる。技術革新は、テクノストレスという新しい疾病を生み、高齢化社会は、年功序列制や終身雇用制をおびやかし、従来家族的な職場との同一化に生き甲斐を感じてきた中高年層はきわめて重大な危機に直面している。」と指摘している。
 そして警察組織でも、「このような新たな要因によるストレスにより、心身のバランスを崩す職員が多くみられるようになってきた。」そして「心の病は、多かれ少なかれ、職場で働く人々すべてが持っているもので、心身をむしばみ、かけがえのない働き手を傷つけていることから、職場のメンタルヘルスが叫ばれている」という。
 しかし、心身のバランスを崩す警察職員が多いことは、近年になってはじまった現象ではない。警察庁では、以前から「一般的に警察職員は、精神障害、特にうつ状態になりやすいといわれている。」ことから、「職員が安心して利用できる職員相談室の設置やTHPの導入による心理相談制度も有効と考え」、各府県では「心の健康管理対策として」「職員相談室や精神科医による個別相談及び保健教室の開催等による管理、監督者に対する教養などのほか精神衛生に関する冊子の配布などの施策を行なっている」。特に精神的問題の解決の為に、生活相談制度とあわせて、メンタルヘルスに力をそそいでいる。「THP」というのは「心とからだの健康づくり運動」のことで「トータルヘルス・プロモーションプラン」(total health promotion plan)の略称である。法的根拠は「労働安全衛生法第七〇条の二『健康の保持増進のための指針』」とされている(一九八八年の労働安全衛生法の改正により、企業の努力義務として導入された)。
 あたかも民間の「THP」が導入されたかのようであるが、このような施策は一九五五年(昭和三〇年代)頃から、民間に先行して行われ始めている。警察庁によれば「警察における生活相談制度は、昭和三十年代以降その必要性が認識され、昭和三十二年には九都県警察において生活相談に関する要綱が制定され、その後、警察庁による各都道府県警察に対する指導、警察大学校における専科教養の実施や各都道府県独自の創意工夫により、生活相談が組織における重要課題として制度化されてきた。」のである。そしてこの一九五七年(昭和三十二)は、警察大学校で警務関係の研究をしていた佐々淳行氏が『新しい監督者論』を出版し、心理学的な監督を訴えた年なのである。
 さらに一九八四年(昭和五九)七月、「『警察職員生活相談実施基準』(昭和五九年警察庁丙給厚発一四号)」によって、「生活相談は福利厚生活動の重要な一環として位置付けられるとともに、各都道府県警察における制度の斉一化と効果的な生活相談の実施が図られることとなった」。「この基準における生活相談とは、警察職員等の生活の安定を確保することにより、その勤労意欲と職務能率の増進に資するため、警察職員等に係る経済的問題、精神的問題その他公私にわたる問題について、適切な助言、斡旋等を行なうこと」であった。「THP」の導入が一九八八年(昭和六十三)であることから、警察では「THP」に先行して、各相談制度が導入されていたことになる。
 また警察庁は、「職場管理上で問題となる典型例としては、無断欠勤、事故の頻発、アルコール問題などがあり、これらはすべて病気ではないが、職場不適応者として把握することが重要である」との考えから、「これら職場不適応者と疾病(心身の障害)の問題には相互に関連性があり、職場の監督者や保健担当者とが連携して解決に協力することが必要である」と、職場不適応と疾病(心身の障害)との問題の相互の関連性を強調している。
 「生活相談は福利厚生活動の重要な一環」というものの、警察庁では「職場不適応者と疾病(心身の障害)の問題には相互に関連性」があるとの基本的考えを持っており、メンタルヘルスは職場監理上の問題と考えられている。そのため、警察職員の福利厚生としての職員相談室といった機関は、監察制度と関連づけられている。監察制度には、最も一般的なものに総合監察があり、毎年時期を定めて、「人員の配置、教養、訓練、士気及び健康管理の状況等」について、過去一か年の状況及び実績を監察している。つまり、警察職員の福利厚生(「THP」)は、監察なのである。その必然的な結果として、警察職員は、福利厚生というサービスを消費することによって、自分自身の監察業務を行ない、警察職員自身は、福利厚生であるとイメージしつつ、知らぬ間に、自らの手で監察という警察行政の一端を生産していることになる。これは、被説得性の極限ともいえる。
 川上和久氏(『情報操作のトリック』講談社、一九九四年)によれば「送り手のコミュニケーションを受け入れなければ自分自身のアイデンティティを保てないような状態にまで追いつめて、被説得性を極度にまで高める。」ことは、「欝病へのステップに位置づけられる、学習性無力感の状態に似ている。」という。このことが、日本警察で「一般的に警察職員は、精神障害、特にうつ状態になりやすい」といわれている原因ではないだろうか。ここに監察の深化の問題がある。
 ところで、警察庁が指摘している「うつ状態」は、それほど異常なことなのであろうか。「警察のイメージ」と「警察の現実」とのギャップに気付いた人間が、心理学的な監督によって利益考量が習慣付けられ、イメージの操作によって被説得性の極致におかれる。その結果、警察が作り出す「警察のイメージ」を現実と認識することが正常の基準とされることで、「警察の現実」を現実と認識することで生まれる罪の意識や負い目の感情が、不合理な異常現象と見られているにすぎないのではないだろうか。



8.「からかい殺す」世の中に ― シャーロック・シンドロームの罹患者たち [第六章 繰り返される探偵化]

 一九九八年(平成十)に自殺者が急増して以来、自殺者数の高止まりが続いた。『吾輩は猫である』の「からかい殺す」世の中になるとの未来予測が見事に的中したといえるだろう。「からかい」というのは、自分の得にもならないのに他人が苦しむ姿を観て楽しむということであるから、「他者の不快を欲する悪意」が動機になっている行為といえるだろう。この行為が現在の日本には溢れているのだ。
 NPO法人ライフリンク作成の「自殺実態白書2008」を読むと、「自殺の危機経路」の被雇用者の個所に①「職場の人間関係うつ病→自殺」②「職場の人間関係→自殺」③「職場のいじめ→うつ病→自殺」と書いてある。「危機連鎖度が最も高いのが『うつ病→自殺』の経路」ということらしい。が、「職場のいじめ→自殺」という経路がないことが気になる。「職場の人間関係→自殺」に含まれるのだろうか。
 「『自殺の危機要因(68 項目)』一覧」は、「警察庁の『自殺の概要資料』で使用されている52 要因をベースに作成」したということだが、①「職場の人間関係→うつ病→自殺」②「職場の人間関係→自殺」③「職場のいじめ→うつ病→自殺」は「職場のいじめ→自殺」と一つに括れそうである。自殺者本人または周囲の人間が、「職場の人間関係」と受けとめるか「職場のいじめ」と受けとめるかによってニュアンスが変わるだけで、被雇用者の自殺のほとんどが「職場のいじめ」が原因の自殺といえそうである。「職場のいじめで自殺しました」とは、本人も周囲の人間も、なかなか認めたがらないものである。漱石は『吾輩は猫である』(第十一話)で「世間がいじめ殺してくれる」「世間からなし崩しにいじめ殺され」と述べたが、現代の日本人は、まさに、なし崩しにいじめ殺されているといえる。
 自殺の主要因となっている「いじめ」は、マリー=フランス・イルゴイエンヌによれば、モラル・ハラスメントという精神的暴力である。モラル・ハラスメントは、①相手を惹きつけ、②自由を奪いながら影響を与えていき、③支配下におき、④被害者がその支配に反抗すると、モラル・ハラスメント的な暴力をふるいはじめる(マリー=フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメント』高野優訳、紀伊国屋、一九九九年)という構造となっており、モラル・ハラスメントの攻撃には「コミュニケーションの否定」という共通した特徴があるという。
 モラル・ハラスメント(精神的暴力)は、学校における「いじめ」ばかりか、上司によるパワー・ハラスメント、セクシャル・ハラスメント、リストラの際の精神的なプレッシャー、職場内いじめ、DV等々、すべての精神的暴力をカバーできる概念である。ブラック企業を特徴付けるのも、モラル・ハラスメントの有無であろう。
 このモラル・ハラスメントの構造が『吾輩は猫である』(第十話)で漱石が述べている探偵化の特徴と一致する。つまり①「嘘をついて人を釣る」(相手を惹きつけ)、②「先へ廻って馬の眼玉を抜く※特定の人物の先に廻って、特定の人物を出し抜くことと考えると、特定の人物の自由を奪うといえる」(自由を奪いながら影響を与えていき)、③「虚勢を張って人をおどかす」(支配下におき)、④「鎌をかけて人を陥れる」(被害者がその支配に反抗すると、モラル・ハラスメント的な暴力をふるいはじめる)となる。
 恐ろしいことにモラル・ハラスメントの構造を、①良好なイメージを宣伝し、相手を惹きつけ、②心理学を駆使しながら影響を与えていき、③イメージを操作してイメージどおりの行動をさせ、④被害者がイメージに反する行為をすると、ダメージコントロールをはじめる。と言い換えても意味が通じるのである。つまりCR戦略・CI活動による宣伝、心理学的な監督、CR戦略・CI活動によるイメージの操作、危機管理論における危機管理広報を一人の人間が実践すれば、モラル・ハラスメントの加害者が出来上がるのである。
 このモラル・ハラスメントの加害者には特徴があり、「自己愛性人格障害」の患者が加害者になることが多いという。DSM-IV(「精神障害の分類と診断の手引き 第4版」、一九九四年)によると、「自己愛性人格障害」というのは、「誇大な感覚、限りない空想、特別感、過剰な賞賛の渇求、特権意識、対人関係における相手の不当利用、共感の欠如、嫉妬、傲慢な態度のうち5つ以上があてはまることで示される」という。不思議なことに、心理学的な監督によって警察官の面従腹背がないことを前提にすれば、CR戦略・CI活動で作ったイメージを信じてイメージに合うように職務を行っている一般的な警察官に、ほとんどの項目があてはまってしまうのである。
 DSM-IVの「自己愛性人格障害」の項目をあてはめてみると、「誇大な感覚」「限りない空想」「特別感」については、CI活動で作った「警察(官)は正義の味方である」「警察(官)は正義である」「警察官は武士である」等々のイメージを現実と信じていればあてはまる。「過剰な賞賛の渇求」については、CI活動で職務として「賞賛」を得るように組織的に常に宣伝していることがあてはまる。「共感の欠如」については、違反者等に共感すると仕事にならず、人間一般が共感すべき場面でも職務上共感できないことが多いことがあてはまる(すでにここで5つあてはまる)。「対人関係における相手の不当利用」については、『新しい監督者論』に注意すべき点が事細かに書いてあり、一般的に行われていると思われる。「傲慢な態度」については、モンボイスが警察官は「独善的に見えることを避けることが非常に困難」と指摘している。「嫉妬」については、『新しい監督者論』に「嫉妬の自制」の項目があり「嫉妬」が一般的に存在することがうかがえる。「特権意識」については、裏金での飲食や天下り等を当たり前と考えている場合等々があてはまるだろう。
 このように、CR戦略やCI活動で作られた「警察のイメージ」が全ての警察官にあてはまると仮定すると、警察官は全て「自己愛性人格障害」ということになる。ここで一つの推理がはたらく、モラル・ハラスメント(精神的暴力)の加害者とは、CR戦略・CI活動・危機管理論等によって「警察のイメージ」によって操作され皆警察化された国民、つまりシャーロック・シンドロームに罹患した人々なのではないだろうかと。
 100年以上も前に漱石が『吾輩は猫である』で、猫に「愛の法則の第一条」は「自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし」(第七話)と語らせていたが、まるで現在のシャーロック・シンドロームに罹患した人々の「自己愛性人格障害」的な性格を風刺しているかのようである。

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