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第七章 シャーロック・シンドロームの正体 ブログトップ

1.シャーロック・シンドロームの正体 ― 人間理性の神格化の完遂 [第七章 シャーロック・シンドロームの正体]

 素朴に、「警察官は正義の味方である」とか「警察(官)は正義である」と信じている人々は、警察(官)を疑うことを知らない。疑うことを知らない善良な国民は、警察記者クラブでの発表や、それを基にして書いた新聞記事に物理学的な因果関係を超越した現象が記載されているとは思ってもみない。
 じつは、新聞報道等が事実なら、警察施設内では、物理学的な因果関係を超越した現象が起こっている。警察官の拳銃自殺の報道の際、拳銃の発射音が物理的には聞こえているはずなのに、だれも発射音を聞かないという現象が度々起こっているのだ(資料1https://blog.so-net.ne.jp/MyPage/blog/article/edit/input?id=72983586)。「警察の怪談」と呼んでもよいくらいである。このような物理学的な因果関係を超越した現象は、科学者の探究心を大いに刺激して、研究の対象になっても不思議ではない。だが、この現象について研究する学者はいない。「警察の怪談」への探究心は、自由な議論ではなく自粛へと向かうのである。
 なぜなら日本では、警察に関する研究はタブーだからである。東京大学名誉教授の政治学者篠原一氏が、『警察オンブズマン』(信山社出版、2001年)という本の「はしがき」で「警察の分析・批判はいまなおタブーの一つ」と書いている。つまり、日本では日本の警察に関する批判的な研究はできないのである。
 これは、東大名誉教授の篠原氏の特別な感想というより、むかしからよく言われていることである。学者は研究で生活しているわけで、生活まで捨ててタブーとされていることを研究しようという人はいない。かりにタブーを破って研究した人がいたとしても、今なお日本社会のタブーだから、結局、学問として認められない。学者でいたいなら、警察について研究しないというのが、常識のある学者の判断なのである。これは戦前の「国体」批判より徹底したタブーといえるだろう。
 常識となっているせいか、篠原氏のようにことさらに主張する人はめったにいないが、日本では現在も、警察の分析・批判はタブーなのである。なぜ警察の分析・批判がタブーなのかさえも定かではない。俗な言い方をすれば、きっとそれは、お守りを粗末にしたり、神社やお寺で粗暴な振る舞いをしたりする人がいないのと同じなのだろう。だれもが、お守りを粗末にすると、何か悪いことが起こりそうな気分になるものだ。日本人としての常識のある学者たちは、警察の分析・批判をすることが、お守りを粗末にすることのように感じるに違いない。
 そんな常識のある学者たちに、「なぜ警察を研究しないのですか」と尋ねると、おそらく、「偶然、警察が研究分野と関係がなかっただけだ」と答えるのではないだろうか。そんな研究者は、研究分野に警察に関する解説が含まれている法学者や社会学者ばかりではない。文学者も、である。『吾輩は猫である』を理解するためには、警察史の知識が必要不可欠なはずの漱石の研究者でさえ、警察に関連する事項には、全く手をつけていないのだ。
 恐ろしいことに、これまで地上に存在したすべての国語教師が、国民作家夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』の警察(道徳性教育教化機関)に関する諷喩をまったく理解することなく、教鞭を執っていたことになるのである。兎に角、警察はタブーなのだ。
 きっとわれわれ従順な日本人は、お盆に先祖の冥福を祈り、十二月にクリスマスを祝い、正月に初詣をして柏手を打つように、素朴に「警察(官)は正義である」と信じて、(安全)神話を作ってきたのだろう。われわれ日本人は神仏を信心するかのように素朴に警察(官)が正義だと信じているのである。
 だが、このことは笑われるようなことではない。むしろ当然の帰結である。かのマックス・ウェーバー(Max Weber,1864―1920 ドイツの社会学者)も「あらゆる領域における秩序と保護(『警察』)とに対する要求の増大が、官僚制化の方向に向って、特に持続的な作用をおよぼす。」(Weber, Max., Wirtschaft und Gesellschaft, Grundriss der verstehenden Soziologie, 1920 M.ウェーバー『経済と社会 支配の社会学』世良晃志郎訳、創文社、一九六〇年)と指摘して、警察官の地位を「地上における神の代理人」と呼んでしまうくらいである。
 キリスト教の伝統のない日本で、欧米の「神」に当たるものを表現しようとすれば、「神格化した人間理性」といったところになるだろう。そして、キリスト教の伝統のある欧米で警察官が「神の代理人」であるとしたら、キリスト教の伝統のない日本では、警察官は「神格化した人間理性の代理人」ということになり、警察官を管理している警察は「神格化した人間理性」そのものということになる。そして先に述べた警察の分析・批判がタブーであることを、警察の神格化の徴表と見れば、全ての辻褄が合うだろう。
 このような見方をすれば、国民皆警察という社会教化事業は、人間理性の神格化の完遂を目指し、神格化された人間理性(警察)と国民とを一体化する政策であったといえるだろう。そして、ショーペンハウアーがいうように人間の理性が道具でしかないのだとしたら、人間理性の神格化の完遂は、人間の道具化の完遂、つまり人間の器械化の完遂ということになるよりほかない。
 漱石が『吾輩は猫である』で指摘した人間の探偵化―本ブログではシャーロック・シンドロームと呼んだ―は、この人間理性の神格化の完遂にほかならない。
 日本は、第二次世界大戦下でひとたび皆警察化され、戦後、危機管理論によって再び皆警察化された。そしてこの皆警察化は今も深化しつつある。しかし、無限に警察化されるこの国には、もう、漱石のように志士の如く生きる人間はいない。スローガンを鼓吹するモノと、喚起されたイメージに反応するモノばかりである。そんなわれわれ日本国民にとっては、漱石が「維新の志士の如き烈しい精神」で、警察を「探偵」と呼んで批判していたことなどは、知る必要のない余分な出来事なのだろう。



資料1 近年の貸与拳銃による警察官の自殺 [第七章 シャーロック・シンドロームの正体]

下記「資料1」を読んで、「なぜ、銃声が聞こえないのか」との疑問を持たれた方は、本ブログ左上にある「マイカテゴリー」中の「第一章 漱石は志士の如く」から順に本ブログをお読みください。

資料1 近年の貸与拳銃による警察官の自殺

件数  日付  施設  ○×は銃声の有無を示す
1 2006年8月20日 大阪府警第3機動隊 ×
2 2006年11月3日 大阪府警枚方署交野市駅前交番 ×
3 2007年3月19日 静岡県警富士署伝法交番 ×
4 2007年6月4日 島根県警出雲署 ×
5 2007年7月22日 埼玉県警本部庁舎 ×
6 2007年9月20日 警視庁立川署富士見台交番 ○
7 2007年12月13日 栃木県警真岡警察署の益子交番 -
8 2007年12月19日 警視庁丸の内警察署東京駅前交番 ○
9 2008年2月10日 栃木県警真岡警察署の益子交番 -
10 2008年4月24日 神奈川県警加賀町署 ×
11 2008年4月25日 千葉県警機動隊十余三(とよみ)事務所 ×
12 2008年7月8日 京都府警田辺署三山木交番 ○
13 2008年7月12日 広島県警因島署三庄北駐在所 ○
14 2008年8月29日 千葉県警千葉東署 ×
15 2008年9月22日 警視庁志村署 ○
16 2008年9月28日 和歌山県警岩出署 ×
17 2008年10月15日 静岡県警沼津署 ○
18 2009年1月14日 警視庁第7機動隊庁舎 ○
19 2009年3月22日 新潟県警佐渡西署佐和田幹部交番 ○
20 2009年4月6日 福岡県警若松署 ○
21 2009年4月10日 香川県警丸亀署土器交番 ×
22 2009年7月10日 宮崎県警高鍋署 ×
23 2009年11月12日 千葉県警浦安署 ○
24 2010年5月31日 青森県警五所川原署 ×
25 2010年6月3日 茨城県警本部分庁舎 ×
26 2010年6月14日 警視庁荻窪署 ×
27 2010年9月22日 大阪府警西堺署 ×
28 2010年11月29日 愛知県警中署 ×
29 2011年6月2日 兵庫県警東灘署六甲アイランド交番 ○
30 2011年5月6日 岐阜県警高山署安川交番 ○
31 2011年9月17日 岩手県警盛岡西署 ×
32 2012年2月11日 福島県警須賀川署駅前交番 ×
33 2012年3月18日 千葉県警流山署駅前交番 ○
34  2012年4月4日 沖縄県警名護署1階武器庫内 ○
35 2013年5月17日 福島県警いわき中央署 ×
36 2013年7月28日 新潟県警村上署 ○
37 2014年2月4日 和歌山東署小倉駐在所 ×
38 2014年2月15日 警視庁蒲田署 ×

※38件中15件は銃声を聞いたとの報道があったが、21件は銃声について報道されなかった。21件中14件は庁舎内が無人とは考えられないが銃声について報道されなかった。

特に、島根県警出雲署1階女性用仮眠室、警視庁荻窪署7階の単身寮、茨城県警本部分庁舎トイレ、大阪府警西堺署トイレ、愛知県警中署トイレなどの事案は、物理学的には銃声が聞こえるはずであるが、銃声は聞こえなかったと報道されている。

庁舎内で銃声がしても誰も銃声に気づかないということは、テロ対策等の危機管理上の問題としても問題のはずだが、気にとめるものはいない。

2014年2月15日の警視庁蒲田署トイレの事案では、拳銃自殺した警察官発見のきっかけは、銃声ではなくトイレ内からの「いびき」と報道された。

なお、愛知県警中署、警視庁蒲田署の事案については、いじめが原因とされている。

  夏目漱石001.png

※「警官の拳銃自殺が急増 半年で8人、最悪ペース」(『共同通信』、2008年10月24日)によると2008年度が「過去10年間で最悪だった2006年度の8人を上回るペース」であったとあることから、かなり以前から、年間平均5件程度で推移しているものと考えられる。

※年間平均5件というのは、2007年度から2013年度までの35件を年度数7で割って算出した。


[再掲]シャーロック・シンドロームの正体 ― 人間理性の神格化の完遂 [第七章 シャーロック・シンドロームの正体]

 素朴に、「警察官は正義の味方である」とか「警察(官)は正義である」と信じている人々は、警察(官)を疑うことを知らない。疑うことを知らない善良な国民は、警察記者クラブでの発表や、それを基にして書いた新聞記事に物理学的な因果関係を超越した現象が記載されているとは思ってもみない。
 じつは、新聞報道等が事実なら、警察施設内では、物理学的な因果関係を超越した現象が起こっている。警察官の拳銃自殺の報道の際、拳銃の発射音が物理的には聞こえているはずなのに、だれも発射音を聞かないという現象が度々起こっているのだ(資料1 http://nekotou-senngenn.blog.so-net.ne.jp/2014-05-15-1)。「警察の怪談」と呼んでもよいくらいである。このような物理学的な因果関係を超越した現象は、科学者の探究心を大いに刺激して、研究の対象になっても不思議ではない。だが、この現象について研究する学者はいない。「警察の怪談」への探究心は、自由な議論ではなく自粛へと向かうのである。
 なぜなら日本では、警察に関する研究はタブーだからである。東京大学名誉教授の政治学者篠原一氏が、『警察オンブズマン』(信山社出版、2001年)という本の「はしがき」で「警察の分析・批判はいまなおタブーの一つ」と書いている。つまり、日本では日本の警察に関する批判的な研究はできないのである。
 これは、東大名誉教授の篠原氏の特別な感想というより、むかしからよく言われていることである。学者は研究で生活しているわけで、生活まで捨ててタブーとされていることを研究しようという人はいない。かりにタブーを破って研究した人がいたとしても、今なお日本社会のタブーだから、結局、学問として認められない。学者でいたいなら、警察について研究しないというのが、常識のある学者の判断なのである。これは戦前の「国体」批判より徹底したタブーといえるだろう。
 常識となっているせいか、篠原氏のようにことさらに主張する人はめったにいないが、日本では現在も、警察の分析・批判はタブーなのである。なぜ警察の分析・批判がタブーなのかさえも定かではない。俗な言い方をすれば、きっとそれは、お守りを粗末にしたり、神社やお寺で粗暴な振る舞いをしたりする人がいないのと同じなのだろう。だれもが、お守りを粗末にすると、何か悪いことが起こりそうな気分になるものだ。日本人としての常識のある学者たちは、警察の分析・批判をすることが、お守りを粗末にすることのように感じるに違いない。
 そんな常識のある学者たちに、「なぜ警察を研究しないのですか」と尋ねると、おそらく、「偶然、警察が研究分野と関係がなかっただけだ」と答えるのではないだろうか。そんな研究者は、研究分野に警察に関する解説が含まれている法学者や社会学者ばかりではない。文学者も、である。『吾輩は猫である』を理解するためには、警察史の知識が必要不可欠なはずの漱石の研究者でさえ、警察に関連する事項には、全く手をつけていないのだ。

 恐ろしいことに、これまで地上に存在したすべての国語教師が、国民作家夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』の警察(道徳性教育教化機関)に関する諷喩をまったく理解することなく、教鞭を執っていたことになるのである。兎に角、警察はタブーなのだ。

 きっとわれわれ従順な日本人は、お盆に先祖の冥福を祈り、十二月にクリスマスを祝い、正月に初詣をして柏手を打つように、素朴に「警察(官)は正義である」と信じて、(安全)神話を作ってきたのだろう。われわれ日本人は神仏を信心するかのように素朴に警察(官)が正義だと信じているのである。
 だが、このことは笑われるようなことではない。むしろ当然の帰結である。かのマックス・ウェーバー(Max Weber,1864―1920 ドイツの社会学者)も「あらゆる領域における秩序と保護(『警察』)とに対する要求の増大が、官僚制化の方向に向って、特に持続的な作用をおよぼす。」(Weber, Max., Wirtschaft und Gesellschaft, Grundriss der verstehenden Soziologie, 1920 M.ウェーバー『経済と社会 支配の社会学』世良晃志郎訳、創文社、一九六〇年)と指摘して、警察官の地位を「地上における神の代理人」と呼んでしまうくらいである。
 キリスト教の伝統のない日本で、欧米の「神」に当たるものを表現しようとすれば、「神格化した人間理性」といったところになるだろう。そして、キリスト教の伝統のある欧米で警察官が「神の代理人」であるとしたら、キリスト教の伝統のない日本では、警察官は「神格化した人間理性の代理人」ということになり、警察官を管理している警察は「神格化した人間理性」そのものということになる。そして先に述べた警察の分析・批判がタブーであることを、警察の神格化の徴表と見れば、全ての辻褄が合うだろう。
 このような見方をすれば、国民皆警察という社会教化事業は、人間理性の神格化の完遂を目指し、神格化された人間理性(警察)と国民とを一体化する政策であったといえるだろう。そして、ショーペンハウアーがいうように人間の理性が道具でしかないのだとしたら、人間理性の神格化の完遂は、人間の道具化の完遂、つまり人間の器械化の完遂ということになるよりほかない。
 漱石が『吾輩は猫である』で指摘した人間の探偵化―本ブログではシャーロック・シンドロームと呼んだ―は、この人間理性の神格化の完遂にほかならない。
 日本は、第二次世界大戦下でひとたび皆警察化され、戦後、危機管理論によって再び皆警察化された。そしてこの皆警察化は今も深化しつつある。しかし、無限に警察化されるこの国には、もう、漱石のように志士の如く生きる人間はいない。

 スローガンを鼓吹するモノと、喚起されたイメージに反応するモノばかりである。

 そんなわれわれ日本国民にとっては、漱石が「維新の志士の如き烈しい精神」で、警察を「探偵」と呼んで批判していたことなどは、知る必要のない余分な出来事なのだろう。

  夏目漱石001.png

【猫党に興味を持たれた方は、本ブログの左側のサイドバーにある「マイカテゴリー」中の「第一章 漱石は志士の如く」から順に本ブログをお読みください。】



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