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憲法はいらない?? [蘇る博士(Polis-Literacy)]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)があれば、憲法はいらない! [Polis-Literacy]

以下の文章は、以前に私がI博士と雑談した際、「日本をよくするために私達は何をすべきか?」との私の問いに、I博士が冗談交じりに語ったことをまとめたものである。
ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)とは、メディア・リテラシー(「私たち自身がメディアを使いこなし、メディアの提供する情報を読み解く能力を『メディア・リテラシー』(Media-Literacy)という。」渡辺武達『メディア・リテラシー』ダイヤモンド社、1997年、3-4頁)という言葉をヒントにI博士が考案した概念で、
私たち自身が民主的に警察(ポリス)をコントロールし、警察(ポリス)が提供する情報を読み解く能力のことを指す。
市民がこれを身につけることで、国民皆警察(ポリス:police)化による警察の利益団体としての市民から、ポリス(都市国家:polis)市民に象徴される自律した市民となる第一歩となる。ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)は、安心・安全を政策目標とした諸政策の警察政策への融合(policyがpolicingと化すこと)を防ぐためのポリシー・リテラシー(Policy-Literacy)ともいえる。
※ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)は、ポリス・リテラシー(Police-Literacy)と表記しても良いのであるが、「私たち自身が民主的に警察(ポリス)をコントロールし、警察(ポリス)が提供する情報を読み解く能力のことを指す。」ということが、「ポリス(都市国家:polis)市民に象徴される自律した市民となる第一歩となる。」という関係を重視して、警察(ポリス:police)ではなく、都市国家(ポリス:polis)を使用し、ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)とした。
西洋における都市国家ポリス(polis)から警察(police)へと変容するpoliceの概念の展開過程には、ハンナ・アレントが全体主義を分析し、近代における公的領域の消滅を指摘したと同様の変化が読み取れる。つまり西洋社会では、ゲマインシャフト的社会からゲゼルシャフト的社会へと展開して行く過程で、ゲマインシャフト的社会における公的領域であった都市国家(polis)という自律の概念が、ゲゼルシャフト的社会における社会的領域の勃興にともない社会における規律・訓練を担当する機関の名称である警察(police)という他律の概念へと転化していったのである。
現在、我国では、安心・安全を強調する社会教化運動が推進され、危機管理論を根拠とした安心・安全を政策目標とした総合的な政策が推進されつつある。これは、戦前の国民皆警察化運動と同様に警察を中心とした社会教化運動による国民のコントロールである。
マスメディアを介して危機管理論を主唱する識者には、日本の警察の特徴である社会教化機関としての警察が、日本国憲法の理念と異なるのではないかという問いが欠落している。
そこでポリス・リテラシーが必要となる。
戦前の地域システムの特徴を概略すれば、隣組等の地域システムは、警察を中心とした社会教化運動によって、警察の下部機構として行政組織に組み込まれていた。この特徴は、現行憲法とは矛盾する。なぜなら、警察が社会教化運動(警察精神作興運動を師表とした日本精神作興運動)によって、国民皆警察を実現しようとすることは、国家機関による思想統制といえるからである。現行憲法が施行された際、内務省が解体され、国家警察から自治体警察へ移行したのもそのためであった。しかし、昭和29年の旧警察法の改正により、都道府県警察制度が実施されると、再び、警察が社会教化運動を展開することとなったのである。現在行われているCR戦略、CI活動、危機管理論等がそれである。
※現在、日本警察では、パンフレット、ポスター、懸垂幕、ダイレクトメール等既存の広報媒体の利用に加えて、テレビやプロモーションビデオ等の広報媒体の利用、警察官志望者の特性を分析した上での積極的な勧誘、新庁舎の建設、独身寮の建設、婦人警察官の積極的採用、一流スポーツ選手の採用、警察学校の教養内容の改善等々、警察組織のイメージアップのためのCI活動を積極的に展開している(河上和夫ほか『講座日本の警察第1巻警察総論』立花書房、1993年、93-100頁参照)。すでに警察の「サービス的活動は、戦前の行政法学に言う『警察(作用)』の枠をはみ出している」といわれており、「広報啓発活動」「スポーツ指導」「社会奉仕活動の指導」「警察音楽隊の活動」「相談業務」等多種多様な「警察のサービス的活動」が存在し(小野次郎「市民とともにある警察活動」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』立花書房、1993年、414-21頁参照)、これらがCR戦略やCI活動として展開されている。
地域システムは、防火・防災・防犯、ことに児童の安全の問題等に対する不安感によって、管理(監視)過多となる傾向がある。
そして、防犯活動の犯罪予防への効果は、実証的に明らかにすることは困難であり、周囲の賛同(警察を含む)が得られなければ、市民が、どの程度の犯罪予防活動への参加が適切か、個人で判断することが出来ない。ゆえに、防犯活動への協力は際限のないものとなり、地域内に新たな問題を発生させることとなる。
つまり、周囲の意見や雰囲気によって、暗黙の参加義務が課せられ、相互の管理(監視)が教化されるのである。
自由があってこそ、道徳的な行為も生まれる余地があるが、管理の強化は、道徳的な行為を社会から駆逐する。管理(監視)の強化(policyのpolicing化)は、不信感を社会にばら撒き、日本の文化に根付いたかに見えるモラル・ハラスメント(いじめ等の精神的暴力=policing)を生む素地となり、それに対する復讐的犯罪(テロ的ともいえる)や自殺が増加する。これらには、法(国権が個人に代わって復讐すること)に対する不信感が根底にある。
危機管理論等によって、安心・安全を高唱することは、不安・危険のメニューを提示して、その対策へのコストを要求することである。
この政策手法は、「この壺を買わないと、不幸になりますよ」といって、壺を売る商法と酷似ている。この壺売り政策による、危機に対する市民のコストの増大には際限がない。善良な市民は危機が来なければ感謝さえする。だからといって、市民に警察を警察のように取り締まれといったのでは、問題解決にはならない。地域社会を異なった経路から、より警察化(ゲゼルシャフト化)することにしかならない。
諸政策を実効性のあるものにするためには、先ず市民の自由を確保するための概念を明確にすることが必要不可欠である。自由を守るために民主主義が必要であり、民主主義の実現のためには、自律した市民が必要なのである。
いま必要なのは、警察を中心としたCR戦略、CI活動、危機管理論によって、市民を警察の利益団体として組織化する(「地域警察」は、「市民全体を、警察を支援する特別な利益団体にする」といわれている。ジェローム・H・スコルニク、ディヴィッド・H・ベイリー(田中俊江訳)「地域警察の目標及び形体」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』立花書房、1993年、427-57頁参照。)ことではない。
必要なのは、市民一人ひとりが、危機管理に関連付けられる諸政策を自律的にコントロールする能力を身につけることなのである。
察しの良い人は、もうお気付きだと思うが、市民一人ひとりが、ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)を身につけることができ、市民全てが、ポリス(都市国家:polis)市民に象徴される自律した市民になることができれば、憲法など不要なのである。






2007-03-16 13:16 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
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いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [蘇る博士(Polis-Literacy)]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [Polis-Literacy]

「やまあらしの智恵」という寓話を作ってみた。

やまあらしの智恵

雪深いヒマラヤの洞穴に、やまあらしの群れが住んでいた。
寒い冬のある日、
やまあらしたちは、こごえないように互いに、体をくっつけあった。
しかし、やまあらしたちは、互いの針の痛さを感じ、それぞれ離れていった。
それでもやまあらしたちは、どうしても温まりたいと思い、
もう一度、互いによりそいあった。するとまた、針の痛さを感じ出した。
こうしてやまあらしたちは、二つの苦しみのあいだを右往左往した。
しばらくして、
「やまあらしに針は、ない」一匹のやまあらしがそう言うと、
やまあらしは口々に
「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、あたためあった。
ところが、あまりの痛さに、寒さも温かさも感じなくなったやまあらしは、
一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ、飛び出していった。
なかまが、洞穴の外でこごえ死ぬのを見て、
ようやく、やまあらしたちは、
これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、
よりあう方法を見つけた。

※この寓話は、I博士が、ショーペンハウアーの有名な寓話を、一部変更し、子供のために作成した童話を修正したものである。『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照。
解説:寒さは、極端な自由を求めるときの孤独感や寂しさを象徴しています。温かさは、他者と一緒に生活することの心地よさを象徴しています。そして、やまあらしの針は、他者と一緒に生活する際の距離感を象徴しています。針の長さに個体差があることがミソです。ここでは、密着したい人もいれば、やや離れていたい人もいるということを理解してください。温もりも過ぎれば苦しみになるということです。寒さは、極端な自由主義。温もりは、民主主義。といえるかもしれません。
「やまあらしに針は、ない」という一匹のやまあらしは、ヒットラー、スターリン、松井茂、毛沢東、金正日といったある意味の偉人です。ショーペンハウアーの時代には、彼等はまだ登場していなかったので、この寓話で新たに加えてみました。国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)のリーダーと考えても良いでしょう。そして、口々に「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、温めあうやまあらしたちは国民(大衆)です。一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ飛び出していき、洞穴の外でこごえ死ぬやまあらしは、国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の国家で、粛正された人々を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)の被害者と考えても良いでしょう。
私は、この寓話で自由民主主義(自由と民主主義の程よい調和、人間と人間との程よい距離)の大切さを述べたかったのです。ここに、現在われわれが抱えている問題の解決の糸口があると、私は信じています。以前にも言いましたが、幼稚園に警察(日本警察はカルト団体です)が交通ルールを教えに来るより早い段階で、自由と民主主義の大切さを教えることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法だと私は思います。つまり、現行の日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教えるということです。
法治国家において、極めて常識的で穏当なことです。
I博士は、お子さんに以上のようなことを知ってもらいたいと願い、この寓話を書かれたそうです。改憲といわなければ、左翼とみなされかねない昨今ですが、ソビエト時代のモスクワ大学の学生がショーペンハウアーを読むことを禁じられていたことからも、I博士が左翼思想によって現行の日本国憲法の理念の大切さを主張しているのでないことは明白です。
「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法を見つけた。」と書きましたが、現在の人間は、その方法を知っていながら、実践できていません。いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間をつくろうとしたり、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間をつくることが解決になると考えています。そのような人は、いじめの存在はむしろ常識的なことだという信念を持っています。しかし、いじめ(モラル・ハラスメント)に耐える忍耐力を養うこと、ただ我慢しろというのは、傷みに鈍感になれということで、「やまあらしに針は、ない」と扇動し、共同性のみを強調する国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者の行為と変わりありません(歴史を見れば、彼等が模倣の法則を応用し、彼等と同様の行為をする人間を増やそうとしたことは明らかです)。また、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間を作ることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の解決策だという発想は、いじめ(モラル・ハラスメント)をより巧妙なものに進化させ、強化することにしかなりません。
いわば、適当な距離でなく、自分が痛くないようにすること、自分の針を長くすることによって、解決しようとすることです。無意識に他者を苦しめることになりかねません。
いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間というのは、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性を教育によってつくることだと、強弁する人がいるかもしれません。しかし、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性が国民すべてにあれば、そもそも、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題は発生しませんし、教育することが可能なら既に問題は解決しているはずです。
それは不可能なのです。
不可能だからこそ、「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法」で、満足しなければならないのだと私は思います。
※この解説は、ショーペンハウアーの寓話の正しい解釈ではありませんので、正しい解釈については、『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照してください。




2006-12-21 17:14 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
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究極の日本の財政の健全化策!! 日本政府が保有するアメリカ国債と日銀が買った日本国債を、1対10で交換するというのはどうだろうか? [蘇る博士(Polis-Literacy)]

2016年6月2日の『毎日新聞』のニュースサイトに「再延期 財政さらに悪化 債務1000兆円、削減困難」という記事があった。

国と地方を合わせた債務残高は過去10年、年30兆円前後のペースで増え続け、2014年度に1000兆円を突破。国内総生産(GDP)に対する比率は2倍を超え、先進国で最悪の水準
なのだそうだ。

借金は今も増えているらしい。
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日本政府のバランスシートは資産が借金を上回っていると主張するヒトたちもいるが、半分以上が固定資産等らしい。

おそらく、政府保有の固定資産は遊休地ではなく、公共のために使われている施設等のことと思われ、破産企業を整理するように、固定資産を処分すると、市民生活に支障をきたすことになりそうだ。

金融資産の内訳の詳細は見ていないが、市民生活に影響を与えないものは、アメリカ国債だけのように思われる。

アメリカ国債は、120兆円ほどあるらしい。

詳しく調べたわけではないので、他にも資産があるかもしれないが・・・

仮に日本政府が破たんして、債権回収することになっても、市民生活に支障のでない金融資産の処分しかできないのなら、早めに借金を圧縮する方法を考えて、実行した方が良いのではないだろうか。

借金の額が額だけに、利息もシャレにならない額である。

それに、借金が大きくなって、利息分の支払いがどんどん増えて、財政を圧迫し、悲観的な世論を醸成してしまうと、犬党の思う壺である。

社会福祉予算を削って、増税しないと国家が破たんすると脅迫し、外国が攻めてくるとか統計上犯罪が減っているのに体感治安が悪化とか不安を煽って、防衛費や警察費を増やそうとする。犬党得意のツボ売り政策だ。

テロ対策(治安維持と防衛、防諜)が喧伝され、国民みんなが、警察の下働きのようなことをさせられて、警察官(同朋を白兵戦で殺すことができるという意味では兵隊より洗脳の度合いが強い)のようになってしまう。

まさに、犬党の思う壺だ。

犬党の中にも、

日銀が国債を買って、政府が硬貨を発行して国債を買い戻して、借金をチャラにすればいいと公言するヒトもいるようだが・・・

全額棒引きというのは、あまりにズルい気がする。

日銀が国債を買って、政府が硬貨を発行して借金をチャラにするのと、大差はないのだが・・・

破たんした場合にアメリカ国債の保有分程度しか、借金が回収できないのであれば、

アメリカ国債の保有高(日本円換算)と日本国債の残高の交換比率(例えば120兆円対1200兆円で1対10)を定めて、

日本政府が保有するアメリカ国債と日銀が買った日本国債を交換するというのはどうだろうか?

例では、1対10で交換することにしたが、円高対策でアメリカ国債を購入した場合や日本国債の発行などにより保有高と残高の比率が変われば、その都度交換比率を変えることにしてはどうだろうか。

企業が破たんした場合、債権回収はゼロか数パーセント程度らしいので、政府保有のアメリカ国債と日銀保有の日本国債の交換の場合は10%も回収できるわけだから、政府が硬貨を発行して国債を買い戻すより、理屈をつけやすいのではないだろうか。

さらに、日銀は取得したアメリカ国債を担保に開発途上国の通貨を長期保有したり、現地通貨建ての融資をするなどして、日銀が投資する開発途上国の経済発展を責任をもって日本政府が実現すれば、その国家が高度経済成長すれば、日本国債での損失分を回復することができるかもしれない。

以下の政策もあわせて実施していただきたいものである。
・法定最低賃金は生活保護費以上とする。
・公務員給与の削減(生活保護費と同程度にする)。
・国会議員・地方議員の削減。地方公議員の無償化(専業の場合は生活保護費に準じる)。
・医師養成機関の無償化とあわせて、医師報酬の削減(被雇用者の医師の年収を公務員給与と同程度にする)。医療介護現場の給与・待遇の格差が、テロ的犯罪を生んでいる可能性がある。
・育英会奨学金(学生ローン)の債権を政府が買って、学生ローンの債務者の救済をする。育英会奨学金(学生ローン)は、大学(本来無償であべき)の予算削減(国の借金減)のために個人に借金を付け替えるような政策である。
・公務員の道徳性の維持回復のためにMEIの導入を忘れてはいけない。

※あくまで、ジョークです。

[再掲]いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [蘇る博士(Polis-Literacy)]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [Polis-Literacy]

「やまあらしの智恵」という寓話を作ってみた。

やまあらしの智恵

雪深いヒマラヤの洞穴に、やまあらしの群れが住んでいた。
寒い冬のある日、
やまあらしたちは、こごえないように互いに、体をくっつけあった。
しかし、やまあらしたちは、互いの針の痛さを感じ、それぞれ離れていった。
それでもやまあらしたちは、どうしても温まりたいと思い、
もう一度、互いによりそいあった。するとまた、針の痛さを感じ出した。
こうしてやまあらしたちは、二つの苦しみのあいだを右往左往した。
しばらくして、
「やまあらしに針は、ない」一匹のやまあらしがそう言うと、
やまあらしは口々に
「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、あたためあった。
ところが、あまりの痛さに、寒さも温かさも感じなくなったやまあらしは、
一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ、飛び出していった。
なかまが、洞穴の外でこごえ死ぬのを見て、
ようやく、やまあらしたちは、
これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、
よりあう方法を見つけた。

※この寓話は、I博士が、ショーペンハウアーの有名な寓話を、一部変更し、子供のために作成した童話を修正したものである。『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照。
解説:寒さは、極端な自由を求めるときの孤独感や寂しさを象徴しています。温かさは、他者と一緒に生活することの心地よさを象徴しています。そして、やまあらしの針は、他者と一緒に生活する際の距離感を象徴しています。針の長さに個体差があることがミソです。ここでは、密着したい人もいれば、やや離れていたい人もいるということを理解してください。温もりも過ぎれば苦しみになるということです。寒さは、極端な自由主義。温もりは、民主主義。といえるかもしれません。
「やまあらしに針は、ない」という一匹のやまあらしは、ヒットラー、スターリン、松井茂、毛沢東、金正日といったある意味の偉人です。ショーペンハウアーの時代には、彼等はまだ登場していなかったので、この寓話で新たに加えてみました。国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)のリーダーと考えても良いでしょう。そして、口々に「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、温めあうやまあらしたちは国民(大衆)です。一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ飛び出していき、洞穴の外でこごえ死ぬやまあらしは、国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の国家で、粛正された人々を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)の被害者と考えても良いでしょう。
私は、この寓話で自由民主主義(自由と民主主義の程よい調和、人間と人間との程よい距離)の大切さを述べたかったのです。ここに、現在われわれが抱えている問題の解決の糸口があると、私は信じています。以前にも言いましたが、幼稚園に警察(日本警察はカルト団体です)が交通ルールを教えに来るより早い段階で、自由と民主主義の大切さを教えることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法だと私は思います。つまり、現行の日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教えるということです。
法治国家において、極めて常識的で穏当なことです。
I博士は、お子さんに以上のようなことを知ってもらいたいと願い、この寓話を書かれたそうです。改憲といわなければ、左翼とみなされかねない昨今ですが、ソビエト時代のモスクワ大学の学生がショーペンハウアーを読むことを禁じられていたことからも、I博士が左翼思想によって現行の日本国憲法の理念の大切さを主張しているのでないことは明白です。
「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法を見つけた。」と書きましたが、現在の人間は、その方法を知っていながら、実践できていません。いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間をつくろうとしたり、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間をつくることが解決になると考えています。そのような人は、いじめの存在はむしろ常識的なことだという信念を持っています。しかし、いじめ(モラル・ハラスメント)に耐える忍耐力を養うこと、ただ我慢しろというのは、傷みに鈍感になれということで、「やまあらしに針は、ない」と扇動し、共同性のみを強調する国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者の行為と変わりありません(歴史を見れば、彼等が模倣の法則を応用し、彼等と同様の行為をする人間を増やそうとしたことは明らかです)。また、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間を作ることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の解決策だという発想は、いじめ(モラル・ハラスメント)をより巧妙なものに進化させ、強化することにしかなりません。
いわば、適当な距離でなく、自分が痛くないようにすること、自分の針を長くすることによって、解決しようとすることです。無意識に他者を苦しめることになりかねません。
いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間というのは、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性を教育によってつくることだと、強弁する人がいるかもしれません。しかし、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性が国民すべてにあれば、そもそも、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題は発生しませんし、教育することが可能なら既に問題は解決しているはずです。
それは不可能なのです。
不可能だからこそ、「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法」で、満足しなければならないのだと私は思います。
※この解説は、ショーペンハウアーの寓話の正しい解釈ではありませんので、正しい解釈については、『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照してください。




2006-12-21 17:14 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
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