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蘇る博士② ブログトップ

憲法はいらない?? [蘇る博士②]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)があれば、憲法はいらない! [Polis-Literacy]

以下の文章は、以前に私がI博士と雑談した際、「日本をよくするために私達は何をすべきか?」との私の問いに、I博士が冗談交じりに語ったことをまとめたものである。
ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)とは、メディア・リテラシー(「私たち自身がメディアを使いこなし、メディアの提供する情報を読み解く能力を『メディア・リテラシー』(Media-Literacy)という。」渡辺武達『メディア・リテラシー』ダイヤモンド社、1997年、3-4頁)という言葉をヒントにI博士が考案した概念で、
私たち自身が民主的に警察(ポリス)をコントロールし、警察(ポリス)が提供する情報を読み解く能力のことを指す。
市民がこれを身につけることで、国民皆警察(ポリス:police)化による警察の利益団体としての市民から、ポリス(都市国家:polis)市民に象徴される自律した市民となる第一歩となる。ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)は、安心・安全を政策目標とした諸政策の警察政策への融合(policyがpolicingと化すこと)を防ぐためのポリシー・リテラシー(Policy-Literacy)ともいえる。
※ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)は、ポリス・リテラシー(Police-Literacy)と表記しても良いのであるが、「私たち自身が民主的に警察(ポリス)をコントロールし、警察(ポリス)が提供する情報を読み解く能力のことを指す。」ということが、「ポリス(都市国家:polis)市民に象徴される自律した市民となる第一歩となる。」という関係を重視して、警察(ポリス:police)ではなく、都市国家(ポリス:polis)を使用し、ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)とした。
西洋における都市国家ポリス(polis)から警察(police)へと変容するpoliceの概念の展開過程には、ハンナ・アレントが全体主義を分析し、近代における公的領域の消滅を指摘したと同様の変化が読み取れる。つまり西洋社会では、ゲマインシャフト的社会からゲゼルシャフト的社会へと展開して行く過程で、ゲマインシャフト的社会における公的領域であった都市国家(polis)という自律の概念が、ゲゼルシャフト的社会における社会的領域の勃興にともない社会における規律・訓練を担当する機関の名称である警察(police)という他律の概念へと転化していったのである。
現在、我国では、安心・安全を強調する社会教化運動が推進され、危機管理論を根拠とした安心・安全を政策目標とした総合的な政策が推進されつつある。これは、戦前の国民皆警察化運動と同様に警察を中心とした社会教化運動による国民のコントロールである。
マスメディアを介して危機管理論を主唱する識者には、日本の警察の特徴である社会教化機関としての警察が、日本国憲法の理念と異なるのではないかという問いが欠落している。
そこでポリス・リテラシーが必要となる。
戦前の地域システムの特徴を概略すれば、隣組等の地域システムは、警察を中心とした社会教化運動によって、警察の下部機構として行政組織に組み込まれていた。この特徴は、現行憲法とは矛盾する。なぜなら、警察が社会教化運動(警察精神作興運動を師表とした日本精神作興運動)によって、国民皆警察を実現しようとすることは、国家機関による思想統制といえるからである。現行憲法が施行された際、内務省が解体され、国家警察から自治体警察へ移行したのもそのためであった。しかし、昭和29年の旧警察法の改正により、都道府県警察制度が実施されると、再び、警察が社会教化運動を展開することとなったのである。現在行われているCR戦略、CI活動、危機管理論等がそれである。
※現在、日本警察では、パンフレット、ポスター、懸垂幕、ダイレクトメール等既存の広報媒体の利用に加えて、テレビやプロモーションビデオ等の広報媒体の利用、警察官志望者の特性を分析した上での積極的な勧誘、新庁舎の建設、独身寮の建設、婦人警察官の積極的採用、一流スポーツ選手の採用、警察学校の教養内容の改善等々、警察組織のイメージアップのためのCI活動を積極的に展開している(河上和夫ほか『講座日本の警察第1巻警察総論』立花書房、1993年、93-100頁参照)。すでに警察の「サービス的活動は、戦前の行政法学に言う『警察(作用)』の枠をはみ出している」といわれており、「広報啓発活動」「スポーツ指導」「社会奉仕活動の指導」「警察音楽隊の活動」「相談業務」等多種多様な「警察のサービス的活動」が存在し(小野次郎「市民とともにある警察活動」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』立花書房、1993年、414-21頁参照)、これらがCR戦略やCI活動として展開されている。
地域システムは、防火・防災・防犯、ことに児童の安全の問題等に対する不安感によって、管理(監視)過多となる傾向がある。
そして、防犯活動の犯罪予防への効果は、実証的に明らかにすることは困難であり、周囲の賛同(警察を含む)が得られなければ、市民が、どの程度の犯罪予防活動への参加が適切か、個人で判断することが出来ない。ゆえに、防犯活動への協力は際限のないものとなり、地域内に新たな問題を発生させることとなる。
つまり、周囲の意見や雰囲気によって、暗黙の参加義務が課せられ、相互の管理(監視)が教化されるのである。
自由があってこそ、道徳的な行為も生まれる余地があるが、管理の強化は、道徳的な行為を社会から駆逐する。管理(監視)の強化(policyのpolicing化)は、不信感を社会にばら撒き、日本の文化に根付いたかに見えるモラル・ハラスメント(いじめ等の精神的暴力=policing)を生む素地となり、それに対する復讐的犯罪(テロ的ともいえる)や自殺が増加する。これらには、法(国権が個人に代わって復讐すること)に対する不信感が根底にある。
危機管理論等によって、安心・安全を高唱することは、不安・危険のメニューを提示して、その対策へのコストを要求することである。
この政策手法は、「この壺を買わないと、不幸になりますよ」といって、壺を売る商法と酷似ている。この壺売り政策による、危機に対する市民のコストの増大には際限がない。善良な市民は危機が来なければ感謝さえする。だからといって、市民に警察を警察のように取り締まれといったのでは、問題解決にはならない。地域社会を異なった経路から、より警察化(ゲゼルシャフト化)することにしかならない。
諸政策を実効性のあるものにするためには、先ず市民の自由を確保するための概念を明確にすることが必要不可欠である。自由を守るために民主主義が必要であり、民主主義の実現のためには、自律した市民が必要なのである。
いま必要なのは、警察を中心としたCR戦略、CI活動、危機管理論によって、市民を警察の利益団体として組織化する(「地域警察」は、「市民全体を、警察を支援する特別な利益団体にする」といわれている。ジェローム・H・スコルニク、ディヴィッド・H・ベイリー(田中俊江訳)「地域警察の目標及び形体」『講座日本の警察 第一巻 警察総論』立花書房、1993年、427-57頁参照。)ことではない。
必要なのは、市民一人ひとりが、危機管理に関連付けられる諸政策を自律的にコントロールする能力を身につけることなのである。
察しの良い人は、もうお気付きだと思うが、市民一人ひとりが、ポリス・リテラシー(Polis-Literacy)を身につけることができ、市民全てが、ポリス(都市国家:polis)市民に象徴される自律した市民になることができれば、憲法など不要なのである。






2007-03-16 13:16 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
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いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [蘇る博士②]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [Polis-Literacy]

「やまあらしの智恵」という寓話を作ってみた。

やまあらしの智恵

雪深いヒマラヤの洞穴に、やまあらしの群れが住んでいた。
寒い冬のある日、
やまあらしたちは、こごえないように互いに、体をくっつけあった。
しかし、やまあらしたちは、互いの針の痛さを感じ、それぞれ離れていった。
それでもやまあらしたちは、どうしても温まりたいと思い、
もう一度、互いによりそいあった。するとまた、針の痛さを感じ出した。
こうしてやまあらしたちは、二つの苦しみのあいだを右往左往した。
しばらくして、
「やまあらしに針は、ない」一匹のやまあらしがそう言うと、
やまあらしは口々に
「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、あたためあった。
ところが、あまりの痛さに、寒さも温かさも感じなくなったやまあらしは、
一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ、飛び出していった。
なかまが、洞穴の外でこごえ死ぬのを見て、
ようやく、やまあらしたちは、
これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、
よりあう方法を見つけた。

※この寓話は、I博士が、ショーペンハウアーの有名な寓話を、一部変更し、子供のために作成した童話を修正したものである。『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照。
解説:寒さは、極端な自由を求めるときの孤独感や寂しさを象徴しています。温かさは、他者と一緒に生活することの心地よさを象徴しています。そして、やまあらしの針は、他者と一緒に生活する際の距離感を象徴しています。針の長さに個体差があることがミソです。ここでは、密着したい人もいれば、やや離れていたい人もいるということを理解してください。温もりも過ぎれば苦しみになるということです。寒さは、極端な自由主義。温もりは、民主主義。といえるかもしれません。
「やまあらしに針は、ない」という一匹のやまあらしは、ヒットラー、スターリン、松井茂、毛沢東、金正日といったある意味の偉人です。ショーペンハウアーの時代には、彼等はまだ登場していなかったので、この寓話で新たに加えてみました。国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)のリーダーと考えても良いでしょう。そして、口々に「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、温めあうやまあらしたちは国民(大衆)です。一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ飛び出していき、洞穴の外でこごえ死ぬやまあらしは、国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の国家で、粛正された人々を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)の被害者と考えても良いでしょう。
私は、この寓話で自由民主主義(自由と民主主義の程よい調和、人間と人間との程よい距離)の大切さを述べたかったのです。ここに、現在われわれが抱えている問題の解決の糸口があると、私は信じています。以前にも言いましたが、幼稚園に警察(日本警察はカルト団体です)が交通ルールを教えに来るより早い段階で、自由と民主主義の大切さを教えることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法だと私は思います。つまり、現行の日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教えるということです。
法治国家において、極めて常識的で穏当なことです。
I博士は、お子さんに以上のようなことを知ってもらいたいと願い、この寓話を書かれたそうです。改憲といわなければ、左翼とみなされかねない昨今ですが、ソビエト時代のモスクワ大学の学生がショーペンハウアーを読むことを禁じられていたことからも、I博士が左翼思想によって現行の日本国憲法の理念の大切さを主張しているのでないことは明白です。
「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法を見つけた。」と書きましたが、現在の人間は、その方法を知っていながら、実践できていません。いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間をつくろうとしたり、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間をつくることが解決になると考えています。そのような人は、いじめの存在はむしろ常識的なことだという信念を持っています。しかし、いじめ(モラル・ハラスメント)に耐える忍耐力を養うこと、ただ我慢しろというのは、傷みに鈍感になれということで、「やまあらしに針は、ない」と扇動し、共同性のみを強調する国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者の行為と変わりありません(歴史を見れば、彼等が模倣の法則を応用し、彼等と同様の行為をする人間を増やそうとしたことは明らかです)。また、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間を作ることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の解決策だという発想は、いじめ(モラル・ハラスメント)をより巧妙なものに進化させ、強化することにしかなりません。
いわば、適当な距離でなく、自分が痛くないようにすること、自分の針を長くすることによって、解決しようとすることです。無意識に他者を苦しめることになりかねません。
いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間というのは、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性を教育によってつくることだと、強弁する人がいるかもしれません。しかし、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性が国民すべてにあれば、そもそも、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題は発生しませんし、教育することが可能なら既に問題は解決しているはずです。
それは不可能なのです。
不可能だからこそ、「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法」で、満足しなければならないのだと私は思います。
※この解説は、ショーペンハウアーの寓話の正しい解釈ではありませんので、正しい解釈については、『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照してください。




2006-12-21 17:14 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
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警察の不祥事予防策 [蘇る博士②]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

警察の不祥事予防策:利他的な贈与の動機のインセンティブ化? [Polis-Literacy]

以下の文章は、以前に私がI博士と雑談した際、「警察の不祥事をなくすにはどのようにすべきですか?」との私の問いに、I博士が冗談交じりに語ったことをまとめたものである。

戦前の代表的警察官僚の松井茂法学博士は、徳義を公徳と私徳に分類し、公徳とは、個人の行為または不行為が公衆に便益を与えるものであり、「一個人の社会 に対する所の徳義」で、「其効果は公衆其物に影響を及ぼす」ものである。私徳とは、その効果が直接に社会一般に及ばないもので、各自の精神的修養に属すもので、一つの美徳であると定義した。松井がいう公徳とは、経済学の表現を借りれば、相互外部効果のことである。例えば、相互外部効果とは、混雑現象における一人一人が同一の外部不経済の発生者であると同時に受領者であることをいう。この外部不経済を内部化することが、松井の公徳の展開という社会教化運動であった。つまり、社会教化運動(規律・訓練)による国民皆警察化(国民全てを官僚化すること)とは、外部不経済の内部化の試みであったといえるだろう。
混雑現象における相互外部効果には、個人が外部不経済を発生させるという側面と、個人が外部不経済を発生させない(道徳的態度をとる)ということによって生み出す外部経済の側面が内在する。そのため、社会教化運動(規律・訓練)による外部不経済の内部化は、外部経済による効用と内部化による効用との区別を不可能にする。このことは、内部化の対象となるまでは、個の効用の最大化を目標として行動するとが、肯定されることを示している。その結果としてモラルハザードが必然的に生じる。
そしてこのモラルハザードを解決するために、社会教化運動(規律・訓練)の強化という形で外部不経済の内部化の努力が継続される。つまり、問題発生の原因 を問題解決に適用するという悪循環が生じ、社会厚生をゼロにするまで社会教化運動が継続される 。しかし、松井の国民皆警察化による道徳の形成(外部不経済の内部化)は失敗に終った。
ここに現在の政府部門の組織が抱える問題の解決のヒントがある。つまり、政府部門の組織が抱えるモラルハザードを解決するために必要なのは、外部不経済の内部化(規律の強化)ではなく、外部不経済を内部化することによって同時に消滅した外部経済の(仮想的な)外部化である。以下、外部不経済を内部化することによって同時に消滅した外部経済の(仮想的な)外部化の一例を示す。
現在、政府職員の効用最大化(政府職員の効用最大化は、自己および自己の属する機関の支配の下にある予算規模の拡大によって追及される。)は、民間人の効用最大化と異なり、資源利用の効率向上と需要への積極的対応につながらない(例えば、公共企業体の職員の主たる関心は、自己の属する公共企業体の職員の厚生の拡大であって、サービスの提供価格を引き下げるよりも、企業体の職員への厚生サービス等を拡大して見かけの利益率の圧縮に努力する)という問題が指摘されている。この原因は、政府職員も自己の効用の最大化を目標として行動すると仮定すると、政府組織を構成する個人が合理的個人の判断によって行動したとき、モラルハザードが生じ、結果として社会的厚生を減少させる。ここに政府組織の非効率を生む原因があると考えられる。政府組織の非効率をただすためには、政府職員の直面する制約条件、つまり制度改革のためのモデルを提示する必要がある。つまり、これまでのコストを認識させること(規律・訓練等によって、個の効用の減少をコストとして認識させること)に主眼を置く施策から、道徳発現の経路を確保するための経済政策のモデルを提示し、その政策モデルを実証することである。
政府職員は一般民間人と異なり、経費削減のインセンティブを持たないということに帰結する。つまり政府職員は、財の生産またはサービスの提供を効率的に行うことに対する報酬を受け取ることができない。
さらに、政府職員は、有権者の意見を自己の都合に有利なように操作する(私企業におけるCI活動に類する宣伝や広報、昨今注目されている危機管理論などがこれにあたる。)ことすら可能であり、政府職員は最適水準よりかなり高い規模の予算案を議会または有権者に認めさせることができる。換言すれば、有権者に帰属するはずであった、消費者余剰の一部が政府職員の余剰となり、かつ政府規模が拡大することを意味する。つまり、政府職員の効用の最大化は、社会的厚生を減少させる。
このような問題の象徴として、予算の完全執行、あるいは、予算の執行残の意図的な流用等がある。例えば、予算の執行残を国庫等に返還することさえ、翌年度の予算獲得に不利となると考えられることから、政府機関の予算の適正な執行を妨げている。
しかしここでもし、この予算の執行残を利用することによって、政府職員へ資源利用の効率向上と需要への積極的対応のインセンティブを与えるモデルを提示することが出来たとすれば、この問題を軽減することが可能となるのではないだろうか。
例えば、警察予算を適正に執行した結果生まれる執行残を翌年度の社会福祉予算に循環させるのである。このことによって、自己の組織の適正な予算執行が人を救うことになる。その反対に不適正な予算執行は、たとえ自己の組織のためであっても、人を救うための予算を流用することとなる(この場合、組織内の会計担当者が、上司の命令によって裏金を作ることに異論を唱える機会を与えることとなる。つまり、道徳性発現の経路を確保することができるのである)ことが明瞭となる。
さらに、会計検査等が適正に行われ、執行残による社会福祉予算への繰越の対前年比を指標化することができれば、政府機関での広報やCI活動に浪費される税を節約することができる。つまり、市民協力を得るための政府機関等の好ましいイメージづくりを意図的にする必要がなくなるのである。なぜなら税を節約した結果が社会福祉の財源として循環するのであるから、公務員の役割が社会的厚生を増加させることであることを、市民に明瞭に印象付けることができるのである。この指標は、ある意味で道徳性の指標ともなる。
つまり、自己(の組織)が手に出来ない効用(予算の執行残)を、限られた受贈者の内の誰に一番に与えたいか(警察患部か救済を求める人々か)という選択可能性(利他的な贈与の動機:利他的な遺産動機〔子の効用をあたかも自分の効用と同じようにうれしいと感じること〕との類似効果が存在すると仮定し、その効果を利他的な贈与の動機と呼ぶこととした)を資源利用の効率向上と需要への積極的対応のインセンティブ(誘引:この誘引を「道徳的な効力のある誘引」MEI 〔Moral effective incentive〕と呼ぶこととしたい)とすることである。これが外部不経済を内部化することによって同時に消滅した外部経済の仮想的な外部化である。
私は、この外部不経済を内部化することによって同時に消滅した外部経済の仮想的な外部化を総合政策と考え、政策提言を行なっていきたいと思う。
最後の部分は、ほとんど冗談だろう。




2006-11-25 05:44 nice!(0) コメント(0) トラックバック(3)



[再掲]いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [蘇る博士②]

以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。

いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法?日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教える! [Polis-Literacy]

「やまあらしの智恵」という寓話を作ってみた。

やまあらしの智恵

雪深いヒマラヤの洞穴に、やまあらしの群れが住んでいた。
寒い冬のある日、
やまあらしたちは、こごえないように互いに、体をくっつけあった。
しかし、やまあらしたちは、互いの針の痛さを感じ、それぞれ離れていった。
それでもやまあらしたちは、どうしても温まりたいと思い、
もう一度、互いによりそいあった。するとまた、針の痛さを感じ出した。
こうしてやまあらしたちは、二つの苦しみのあいだを右往左往した。
しばらくして、
「やまあらしに針は、ない」一匹のやまあらしがそう言うと、
やまあらしは口々に
「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、あたためあった。
ところが、あまりの痛さに、寒さも温かさも感じなくなったやまあらしは、
一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ、飛び出していった。
なかまが、洞穴の外でこごえ死ぬのを見て、
ようやく、やまあらしたちは、
これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、
よりあう方法を見つけた。

※この寓話は、I博士が、ショーペンハウアーの有名な寓話を、一部変更し、子供のために作成した童話を修正したものである。『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照。
解説:寒さは、極端な自由を求めるときの孤独感や寂しさを象徴しています。温かさは、他者と一緒に生活することの心地よさを象徴しています。そして、やまあらしの針は、他者と一緒に生活する際の距離感を象徴しています。針の長さに個体差があることがミソです。ここでは、密着したい人もいれば、やや離れていたい人もいるということを理解してください。温もりも過ぎれば苦しみになるということです。寒さは、極端な自由主義。温もりは、民主主義。といえるかもしれません。
「やまあらしに針は、ない」という一匹のやまあらしは、ヒットラー、スターリン、松井茂、毛沢東、金正日といったある意味の偉人です。ショーペンハウアーの時代には、彼等はまだ登場していなかったので、この寓話で新たに加えてみました。国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)のリーダーと考えても良いでしょう。そして、口々に「やまあらしに針は、ない」ととなえながら、温めあうやまあらしたちは国民(大衆)です。一匹、また一匹と、ヒマラヤの吹雪の中へ飛び出していき、洞穴の外でこごえ死ぬやまあらしは、国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の国家で、粛正された人々を象徴しています。いじめ(モラル・ハラスメント)の被害者と考えても良いでしょう。
私は、この寓話で自由民主主義(自由と民主主義の程よい調和、人間と人間との程よい距離)の大切さを述べたかったのです。ここに、現在われわれが抱えている問題の解決の糸口があると、私は信じています。以前にも言いましたが、幼稚園に警察(日本警察はカルト団体です)が交通ルールを教えに来るより早い段階で、自由と民主主義の大切さを教えることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題を緩和する方法だと私は思います。つまり、現行の日本国憲法の理念を、初等教育以前にしっかり教えるということです。
法治国家において、極めて常識的で穏当なことです。
I博士は、お子さんに以上のようなことを知ってもらいたいと願い、この寓話を書かれたそうです。改憲といわなければ、左翼とみなされかねない昨今ですが、ソビエト時代のモスクワ大学の学生がショーペンハウアーを読むことを禁じられていたことからも、I博士が左翼思想によって現行の日本国憲法の理念の大切さを主張しているのでないことは明白です。
「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法を見つけた。」と書きましたが、現在の人間は、その方法を知っていながら、実践できていません。いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間をつくろうとしたり、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間をつくることが解決になると考えています。そのような人は、いじめの存在はむしろ常識的なことだという信念を持っています。しかし、いじめ(モラル・ハラスメント)に耐える忍耐力を養うこと、ただ我慢しろというのは、傷みに鈍感になれということで、「やまあらしに針は、ない」と扇動し、共同性のみを強調する国家社会主義や失敗した共産主義・社会主義の指導者の行為と変わりありません(歴史を見れば、彼等が模倣の法則を応用し、彼等と同様の行為をする人間を増やそうとしたことは明らかです)。また、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間を作ることが、いじめ(モラル・ハラスメント)の解決策だという発想は、いじめ(モラル・ハラスメント)をより巧妙なものに進化させ、強化することにしかなりません。
いわば、適当な距離でなく、自分が痛くないようにすること、自分の針を長くすることによって、解決しようとすることです。無意識に他者を苦しめることになりかねません。
いじめ(モラル・ハラスメント)に負けない忍耐力のある人間、いじめ(モラル・ハラスメント)を打ち負かす人間というのは、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性を教育によってつくることだと、強弁する人がいるかもしれません。しかし、他者の痛みを自らの痛みと感じる人間性が国民すべてにあれば、そもそも、いじめ(モラル・ハラスメント)の問題は発生しませんし、教育することが可能なら既に問題は解決しているはずです。
それは不可能なのです。
不可能だからこそ、「これならどうにかしのげるというくらいの適当な距離をおいて、よりあう方法」で、満足しなければならないのだと私は思います。
※この解説は、ショーペンハウアーの寓話の正しい解釈ではありませんので、正しい解釈については、『ショーペンハウアー全集』(白水社)を参照してください。




2006-12-21 17:14 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
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